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討論会(3月28日)の報告



討論会・ヘイトスピーチ規制論を考える 報告

集会告知
当日資料(PDF)
発言要旨(PDF)


報告を出すまでに3ヶ月以上が経過してしまったのは、集会で司会者だった私をはじめとする当会メンバーの怠惰のせいである。登壇者および参加者の皆さまにお詫び申し上げる。

ヘイトスピーチという言葉の普及は、差別問題への社会的な認知の深まりを伴っていないのではないか。社会運動の一部に見られる、ヘイト街宣のような目立つ動向に的をしぼった対決姿勢と、日本社会における人種差別や排外主義への認識には、大きな隔たりがあるのに、それが運動の場において冷静に認識されていないのではないか。こうした疑問をめぐって率直な議論をしたいという考えから、この集会をもった。この隔たり自体は、登壇者のだれも否定していなかったので、その点について大きく議論が割れることはなかった。では、どういう隔たりなのか? 登壇者の方々のコメントによって、状況が多面的に見えるようになったと感じる。各コメントの内容については、発言要旨を参照されたい。

本集会における究極的な問いは、現状において「ヘイトスピーチ規制法」なり別の反差別立法なりを推進していくべきか、法制化によらない反差別運動を展開すべきか、というものだ。これについて会場での議論は、一つの明確な答えに収斂したわけではない。立法よりも運動が、しかも差別が起こる現場での動きが重要であるということが、最大公約数的な共通認識であった。とはいえ「運動」や「現場」という語によって強調されることがらについても、登壇者ごとに違いがあった。

「のりこえねっと」事務局の川原さんは、公権力が排外主義にたいして甘いという現状をふまえ、多くの人が集まる「カウンター」行動では、現場の力関係に応じて警察の対応も変わってくるという実感を述べた。他方、本会のほくしゅは、戦後ドイツの反ファシズム政策が、根強く残るナチス支持を問題視した上からの施策として着手されたことを示し、他国の事例をそのまま日本に適用して考えることの難しさを指摘した。「YOSHIMI裁判いっしょにアクション」の永山聡子さんは、在日朝鮮人が被差別立法に当事者として関与できないことや、有権者の選択の結果として現在のひどい政治があるという点をもって、現状で立法措置がうまくいくとは楽観できないと述べ、この状況を生活の場や社会空間において変えていくための運動が必要であると強調した。「在日本朝鮮留学生同盟」の申泰革さんは、露骨なヘイト街宣には現行法でも対処できるはずと前置きしたうえで、新たな立法が日本人マジョリティの視野に限定された「差別の基準」を設けるならば、それに甘んじる被差別者と異論をとなえる被差別者との分断が起きてしまうのではないか、現にカウンターの現場でもそういう分断が起きてはいないかと問いかけた。

結局、問いが投げ返されたのは、運動そのものにたいしてである。運動が乗り越えていくべき壁はどこにあるのか。在特会、安倍政権、デモの動員数の限界だけでなく、差別する側としての日本人と被差別者との厳然たる壁の存在が、この討論会で改めて示されたと感じる。ヘイト街宣や「ネトウヨ」のような外部の敵を叩くことが、この壁を崩すことには直結していないからこそ、ヘイトスピーチ問題をめぐる認識の隔たりが生じているのである。そのことを冷静に直視すべきだろう。

国政に目をやると、民主党が起草した罰則規定なしのヘイトスピーチ規制法案が5月22日、民主と社民の共同提出のかたちで国会に提出された。しかし、安保関連法案が今国会の焦点となるなか、ヘイトスピーチ規制法案をめぐる審議はまだ進んでいない。この状況のなかで思うのは、ヘイトスピーチの法規制という「小さなとっかかり」から始めることが、はたして「有効性」という観点から見ても正しかったのかということだ。この国の醜悪なヘイトスピーチを生み出しているところの、自国が行った戦争と植民地支配をめぐる歪んだ歴史認識を正すという、まさに現政権下において一つの中心課題となりうるはずの目標の先に、その成果としてのみ、反差別立法を展望しうるのではないか。

2015年7月5日
ヘイトスピーチに反対する会 柏崎正憲


討論会・ヘイトスピーチ規制論を考える(3月28日)



討論会・ヘイトスピーチ規制論を考える


■日時 2015年3月28日(土) 17:45開場/18:00開始
■場所 
千駄ヶ谷区民会館 東京都渋谷区神宮前1-1-10
原宿駅・徒歩10分
■登壇者
川原栄一(のりこえねっと事務局)
申泰革(在日本朝鮮留学生同盟)
永山聡子(YOSHIMI裁判いっしょにアクション!事務局、一橋大学・院生)
ほくしゅ(ヘイトスピーチに反対する会)
■資料代 500円
■主催 ヘイトスピーチに反対する会 livingtogether09@gmail.com


「レイシストを止めよう」 そのような動きが広がっている。
「ヘイトスピーチは問題だ」 そのような声が政界からも聞こえてくるようになった。
そのとおりだ。差別扇動や排外主義とは断固たたかわねばならない。

「国が法をもってヘイトスピーチに対処すべき」
たしかにそうだ。差別への反対は、政策にも反映されるべきだ。

ところで政府は、ヘイトスピーチを差別問題として認識しているのか?
かつての植民地主義と戦争を正当化する風潮が強まり、
自国の問題を棚上げにして隣国への反感を煽る報道がまんえんするなかで、
「朝鮮人」「中国人」にたいする敵意の表現だけを「法規制」できるのか?

そんななか「反ヘイトスピーチ」の機運だけが高まっているとすれば、
むしろその状況には不気味さすら感じてしまう。
反差別立法を真剣に追求するならばこそ、
楽観視を避けながら冷静に現状を見定める作業が必要ではないか。

現政権のみならず日本社会そのものがますます「暴走」していくなか、
抵抗の足場を固めなおすために、率直な意見交換の場としたい。


※ 当会はニューズレターを発行しました。
第1号 http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-136.html



ニュースレターを発行することにしました

「ヘイトスピーチに反対する」ということがどういうことなのか、より根本的に問うていきたいということで、このたびニュースレターを発行することにしました。

今後定期的に発行していく予定です。印刷物としても配布を考えていますが、取り急ぎPDF閲覧することができます。


第1号はこちら → ニュースレター1号

内容

特集「ヘイトスピーチ規制法」
*「国益」のためのヘイトスピーチ規制?
*楽観視の危険性

「福島差別」をめぐる虚像 ∼「病者」「障害者」差別を加害者責任と国家補償の観点から考える∼ PART1




4月26日集会の報告

以下は、4月26日に当会が開いた集会酒井隆史 meets ヘイトスピーチに反対する会 ~何が運動を国民主義化するのか~」にかんする、当会の報告である。

酒井さんの講演は、1960年安保における国会周辺の抗議運動に光を当てることに、焦点を絞ったものだった。まず、酒井さんは自身の問題関心を説明するために、最近の大江健三郎の発言を例に挙げた。大江は昨今の反原発デモを、60年安保や70年安保における「学生活動家」の「ジグザグデモ」と比較して、後者が「普通の市民の参加を拒絶」しているのに対し、現在のデモは「およそ誰も指導しないし、指導されもしない」「民主主義のデモ」であると評価している。だがこのような見方は、運動史の恣意的な再構成でしかなく、街頭運動の潜在力をみずから狭めてしまうものだと、酒井さんは反論する。彼によれば、ジグザグデモの源流は、戦後の前衛的な学生運動ではなく、少なくとも戦前の大阪における労働運動まで遡りうるもので、それはむしろ祝祭性さえ有する、民衆による民衆のためのデモであったという。戦後においてもジグザグデモは、学生の占有物というわけではなく、1960年安保においても、労働者や市民の多くが自発的に採り入れた抗議形態であった。むしろ国会前のジグザグデモを非難したのは、先鋭化する運動から離反したデモ参加者ではなくて、運動の統制ができないことを苦々しく思っていた運動指導者や「議会政治を守れ」というスローガンを掲げたマスメディアであったと、酒井さんはつけ加える。彼によれば、とくに共産党は「整然とした」デモを乱す者が民主主義を壊しているとして、全学連やジグザグデモ参加者を執拗に攻撃した。だがむしろ、共産党がよしとするような運動の自主規制が浸透するにつれて、かえって警察による「街頭の自由」への統制が強まっていったという。こうしたなか、1960年の安保反対運動は、6月19日の改定安保条約の自然成立を境に沈静化していく。

現在の東京での官邸前デモや街頭抗議については、酒井さんは、事情を熟知していないのでむしろ会場から意見を聞きたいと断り、はっきりとした言明は避けた。とはいえ、近年の反原発などの街頭運動について注意深く観察している者にとっては、彼の実証的・歴史的考察が現状についてもつ意味を、読み取らずにはいられないだろう。1960年安保で共産党が代表していたような、「整然とした」デモを大衆的・民主的として持ち上げる自主規制的な眼差しが、まさに今日の街頭や官邸前デモには、深く浸透していないだろうか。そのようなムードを示す一例として、酒井さんがたとえば大江健三郎のデモ評価に批判的に言及しているのだと理解しても、本人の意図を歪めてはいないだろうと思われる。昨今の街頭運動にかんする(大江が表明したような)自己イメージが、自主規制による権力との妥協という限界について無感覚・無反省であり、だとすれば今日の運動も、この同じ限界から自由ではないのではないかという点では、酒井さんの言外のメッセージは明確であろう。

*

その後の会場討論では、まず当会が、集会の副題にも掲げている「運動の国民主義化」について問題を提起した。官邸前デモだけでなく、昨年の大久保以来の「反レイシズム」カウンター行動も参照しつつ、いくつか気になる点を挙げた。改めてまとめると、以下の三点である。

第一に、社会運動における保守や右翼との連携が「懐の深さ」や大局的・建設的な運動姿勢として歓迎される(以前からの)傾向と、酒井さんが問題にしたような街頭運動と権力・規制との妥協という問題に、関連があるのかどうか。全体としては分かりやすい保守イデオロギーを前面に出すことはなく、しかし保守的、内向きなムードがますます運動に蔓延しているように見える。そうした意味での国民主義化は、街頭運動における規制への順応という現象とも、関連しているのではないか(現に、60年安保における共産党の基本路線は反米愛国だった)。

第二に、在特会などのレイシスト運動を攻撃するために差別的言辞が使われ、それに対する異論表明が(とくにウェブ上で)逆に非難の対象になる(レイシストとの闘いへの妨害などとして)という、一部の傾向について。これは、一見すると「上からの運動統制」とは逆の事態に見えるが、しかし実際には、運動内部の討論や批判を抑え込む、強い内向きな風潮を増幅しているように感じられる。これは、権力や規制への妥協とはやや質の異なる、草の根の運動において解決しなければならない問題ではないか。

第三に、運動における民主主義というスローガンの両義性について。60年安保では、民主主義の見かけをかなぐり捨てた強行採決へのデモ参加者の憤りが強くあったし、現在の反原発や反解釈改憲、あるいは反レイシズムにも、民主的価値の擁護や奪還への思いが少なからず含まれているように見えるが、その一方で、運動を限界づけ、制限するためにも、民主主義というスローガンは機能してきた。このことをどう考えるのか。民主主義に訴えかけるだけではなく、その内実を問いなおし、拡げるために、何が必要なのか。

しかしながら、酒井さんの視点、当会の問題提起、そして会場からのコメントが、あまりうまくかみ合わないまま、散漫なうちに集会は時間切れとなってしまったように感じる。これについては、なによりまず、当会の議事進行のやり方に問題があった。その点は反省し、今後の課題としたい。他方、欲を言えば、現状についても酒井さんから独自の分析やコメントを述べていただきたかった。たとえば運動の「国民主義化」という当会の提起した論点に対しては、「国民主義」という語の選択は別として、問題としていることがらのいくつかには大筋で賛成である旨、酒井さんは述べただけであった。また現状にかんする会場からのコメントについても、今日の運動の様相という観点からは、酒井さんはほとんど応答していなかったように記憶する。われわれの議事進行がうまくなかったせいでもあるが、誰の側に立つのかという立場表明ではなく、酒井さんの独自の情勢分析やコメントを、少しでもお聞かせいただければ、議論もより活発になっただろうと思う。

*

最後に、集会後、当会の内部議論で出された見解を、いくつか挙げたい。

第一に、日常の差別と公的な差別・排外主義との関連について。この論点は、質疑応答における酒井さんのコメントを受けている。ある居酒屋での懇親の席で、彼の学生が悪ぶれもせず唐突にヘイト発言をおこない、どう対応すべきか困ったという例をあげ、日常レベルでの排外感情の蔓延に対する取り組みが必要ではないかと示唆した。それはもちろんそうなのだが、その取り組みとは具体的にどのように行われるのか。「ひとりひとりが注意す」というありきたりな精神論のほかに、具体的な指針はあるだろうか。また、日常レベルの取り組みと、社会運動とは、いかなる接点をもつだろうか。たしかに差別という現象は、日常関係、文化やイデオロギー、そして制度という、さまざまな分野にまたがっているのだが、そのどれかを他の分野を条件づける基礎として見るよりは、それぞれの分野においてなされるべき取り組みのかたちを区別したうえで、相互に関連づけていくような議論のやり方のほうが生産的ではないか。こうした意見が会内で出た。

第二に、いまの日本の運動状況を踏まえて、どのような議論と活動の方向を定めていくべきかについて。酒井さんが問題にした権力・規制への順応と、当会が問題にした国民主義化は、つぎの点において並行する現象であると、さしあたり言えるかもしれない。つまり、動員数や「整然とした」デモを至上目的とする一方で、運動内部における相互批判や自己検討を忌避し、差別の問題についても過激なレイシストの土壌である制度的・社会的な価値観を問題にしない風潮において。そうだとすれば、運動を内部から自己変革しようとする力が、圧倒的に弱いということが、克服すべき問題と言える。そのような力は、どのようにして育てていくことができ、また逆に何によって弱められていくのか、ということを問い返しながら、活動を展望し、推進していく必要があるだろう。当会はまだ、具体的な展望を見定めるには至っておらず、それは今後の課題である。ともあれ、そのような課題を強く意識するようになった点において、当会としては、酒井さんをお招きして集会をもった意義を、さしあたり確認することとしたい。


「公開討論会開催のご提案」への返答2

返答1
返答1にたいする先方の返答 http://kino-toshiki.tumblr.com/post/81834400517


木野さま

開催に向けた協議に入るにあたって私たちが要求した、最低限度の5条件が満たされていないので、そして何より、あなたの態度からは、残念ながら生産的な議論が望めないので、このたびご提案いただいた公開討論会には、わたしたちは参加しません。


第一に、討論の内容について。
あなたは「当方と決議文と貴会の決議案とでは大きな違いがある、いや、「対立」があります」と返答し、その対立について議論されたいとおっしゃいますが、対立があること自体は、いちいち確認していただかなくても自明です。

そちらの「具体的な法整備案もなければ歴史認識問題にも一切触れ」ないという方針が、どういう考えや根拠から出てくるものなのか、あなたの書いたものからは見えてこないと、わたしたちは先の返信に書きました。
わたしたちの考えは、その都度ブログの諸記事で明らかにしようと努めてきましたが、あなたからは何も見えてこない。
先の返信で「条約履行に収れんする運動が生産的ではないことはすでに木野さまにご参加いただいた学習会においても十分に語られたことだったのではないかと思います」と書きましたが、そう思うのか思わないのか、思わないならどう考えているのか、といったことを、まったく返答されていません。


このようすでは、わざわざ当日に足を運んでも、なんら議論の発展など期待できないと思わざるをえません。
無駄な議論、相手を言い負かすことだけを目的とした、ためにする討論のために、貴重な時間を割きたくはありません。



第二に、あなたの悪質な態度について。

あなたは「返信への返信」でまたもや私たちを「反レイシズム運動の妨害者」と呼びました。
あなたがどう思おうが知ったことではありませんし、あなたの活動に協力する気もありませんが、あなたの活動ではなく「反レイシズム運動」それ一般にたいする「妨害者」とわたしたちを規定する根拠を、あなたはまったく示していません。
根拠がなければ、それはたんなるレッテル貼りです。

わたしたちは昨年9月22日に、「東京大行進」の集合場所周辺で街宣・ビラ捲きをすることにした経緯や、そこで起こった事実を、ブログで公表しました。私たちは街宣を「東京大行進」主催者が設けた規定に抵触しないかたちで行っており、むしろそれを一方的に妨害されたのは私たちですが、そのことを事実関係によって説明しています。しかし「東京大行進」主催者は、事実関係の説明には触れようとせず、ヘイトスピーチに反対する会の参加を今後拒否すると公表しただけでした。

今回わたしたちが掲げた5つの条件についても、「謝罪しません」「松沢さんに言ってください」「野間さんに言ってください」などと、「東京大行進」主催者の一人としての責任をまったく省みない応えを返しているだけです。拒否や不同意を表明するならするで、根拠を示せばまだしも説得力があるかもしれませんが、「いやだ」「拒否する」といったことしか、あなたの返答には書かれていません。

これではまったくお話しにならない、というのが、わたしたちに唯一できる回答です。


最後になりますが、わたしたちは、あなたの関わっている活動そのものには、なんの関心もありません。問題の核心に対決せず、印象操作とレッテル貼りで表面的な盛り上がりを演出するような運動は、どうせ先が見えているのですから。わたしたちがいま問題にしているのは、この国における現在の社会運動一般の姿勢です。


ヘイトスピーチに反対する会




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