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【何が問題なのか】 3.「日の丸は無関係」論、「日の丸批判はヘイト」論

1.24行動で何が問題となっていたのか、何をわたしたちが問題にしようとしていたのかについて、ひきつづきブログでおぎなっていきます。
______________

今回は「日の丸は無関係」や「日の丸批判はヘイトスピーチ」といった論理の、どこがどうねじ曲がっているかを解説します。

たとえばこうです。

>在特会批判するのは構わないが
>日の丸は関係ないだろう。

関係なくなどありません。かれらが日の丸をシンボルマークに他民族排斥を行っているのですから。

在特会ら「行動する保守」は、日本人全体がたったひとつの利益をもつと勝手に想定し、それを「日の丸」としてシンボル化します。「日本人の利益」なるもの、しかも「日本人」でない人とは共有できないものとしての「日本人の利益」なるもの、それを「日の丸」に象徴させるわけです。

もちろんその背景には、日帝期に日の丸が「日本人の民族的優秀性」というフィクションの象徴だったという、歴史的な経緯があります。「日本人の民族的優秀性」とは同時に、つまり他のアジア民族は未開であり劣等なのであって、それを導く能力と権利と使命が「日本人」にはあるという、傲慢な思想を含んでいました。こう言ってもいいでしょう。近代においては、「日本人」という概念そのものが特権であるかのようにされたということです。そして、その特権性のシンボルマークが「日の丸」でした。

かたや2010年、在特会らは「在日特権」というねじれた言葉を使います。「在日特権」などというものがあるとすれば、どう考えてもそれは「在日日本人」(それと在日米軍)にあるはずですが、それ以前に、この「特権」という想像力は何でしょうか。「日本」にいることが「特権」つまり特別なものである、という世界観は何なのでしょうか。戦中の「日本人の民族的優秀性」という傲慢な想像力と、どこがどう変わったというのでしょうか。要するに在特会らは、「日本人」だけが「特権」をもつべきだ、自分たちだけにいつまでも特権をくれ、と言っているのです。ただし、戦中の「日本人の優秀性」は膨張主義的だった、つまり他民族にぜひとも押し付けねばならないものだったのに対し、2010年のいまでは、それは他者と共有不可能であり、ゆえに何としても他者に譲り渡してはいけないものとして、想像されています。

そして日の丸は、いまも昔も、そのような「日本人」という特権性のシンボルとして、ということはつまり、同時に他民族の劣位というメッセージが込められたものとして、振り回されているのです。ここに、日の丸を単なる「アイデンティティの象徴」などと言って済ますことのできない理由があります。

さて、奇妙なことに、日の丸への批判が強者から弱者への攻撃であるかのように受け取る人がいます。そのような発想においては、上に説明したような日の丸の歴史と意味がみごとにひっくりかえっています。この倒錯もきちんと指摘しておくべきでしょう。たとえば、

>とりあえずまあ多くのコメントにあった
>日の丸に大きなバッテンをつけ多くの日本人の尊厳を傷つけた
>このことについて何か言って下さい
>ヘイトスピーチに反対するとか言っといて自らも同じ行為をする全くもって意味不明
>どうぞ逃げずに答えて下さいね

まず、ヘイトスピーチが単なるけなし文句とどう違うのかは、過去記事で説明済みですので、繰り返しません。そのうえで、「多くの日本人の尊厳」が「傷ついた」という、この根拠のない決めつけに現われている被害者意識を問題としましょう。何かにおびやかされつつある弱いものとして「日本」なるものをイメージすることは、実のところ、先にも説明した「日本人の特権性」と結びついていると言わざるを得ません。

近代日本は、日本人であることをひとつの「特権」にしてしまいました(そのシンボルが日の丸)。つまり、日本人で「ある」か「ない」かを、人間の優劣を左右する要素であるかのようにでっち上げました。しかもそれはあらかじめ「日本人である」と決められたもの以外には共有できないものとされていました。(なお、戦中、創氏改名した朝鮮人であっても、「朝鮮戸籍」により「内地人」と区別され二級市民あつかいされ続けました。そのような歴史を反省せず、在日朝鮮人・韓国人に「帰化」をすすめることもまた、二級市民あつかいの歴史の延長線上にあるものです。)

この「他者と共有できない特権としての日本人性」という幻想こそが、被害者としての日本人という意識の前提となっているのです。なぜ日本に生きている「日本人」が、それほどまでに自己を弱い被害者として感じるのでしょうか。なぜ日の丸への批判を、個人の「尊厳」への攻撃として感じるのでしょうか。「日本」「日本人」なるものを「特権」として前提していなければ、そのような感覚は生じてこないだろうし、日の丸批判が差別だ、ヘイトスピーチだ、などという倒錯した論理は出てきようもありません。「日本人」であることによって、いつまでこのような閉鎖的・自己満足的な幻想をもちつづけねばならないのでしょうか。

(なお、日の丸にかぎらずどの国旗であっても、さまざまな歴史や文脈のなかで、民族的優越性というフィクションのシンボルとして批判されてきました。他方、マジョリティが少数者をおとしめるという文脈で、差別と排除のメッセージを伝えるために国旗が使われることもあります。これらのことは区別されねばなりません。)

【何が問題なのか】 2. 「似たもの同士のあらそい」というにぶい感性

当ブログに寄せられたコメントのなかで、在特会シンパの攻撃の次に多かったのが「左翼も右翼も似たもの同士だ」という批判でした。こういう見方をするひとの感性の、なんと貧しいことでしょう。もちろん、わたしたちの主張や論理そのものにたいして説得力ある批判がなされるなら、それを引き受ける用意があります。

しかしこうした、「右でも左でもない中立性」をことさらに強調して、差別と反差別を「どっちもどっち」にしようとする捉え方にたいしては、感性が磨耗しているとしか言いようがありません。
たとえば、

>逆に騒がれることで在日の方たちにたいする目が、変わってしまうのではないでしょうか?
>ああいった人たちは幼稚な人たちですから、シカトしてあげればいいんです。
>社会を敵に回したところで彼らの利益になるのでしょうか?
>もっと言えば目立ちたいだけにも見えてしまうのですが・・・。

まず、目立ち「たい」かどうかは別として、排外主義、ヘイトスピーチがなされている目の前でそれに反対しなければならないと考えたからこそ、1.24のような行動を組みました。そのうえで、こちらカウンターアクション側が騒ごうが騒ぐまいが、その前にすでに「幼稚な人たち」が「在日の方たちにたいする目」を「変える」ために「騒いで」いる、という事実があるわけです。

そもそも、仮に在特会らが騒いでいないとしても、この社会における「在日の方たちにたいする目」は、悪意あるまなざしとして根深く残っており、それはテレビやマンガなどといったさまざまな媒体をつうじて今もたれ流されています。在特会のせいでそれがより悪くなることはあっても、元々はよかった見方が悪い見方に変わってしまうという話ではありません。

そういう差別意識に反対することが、「社会を敵に回」すということなのでしょうか? そのような、安易に敵/味方という線を引こうとする考えの延長線上に、在特会のような集団があるのではないでしょうか。

>クズ(在特会)を批判する団体が同じレベルのクズになってどうする
>言論で対抗すべきだ。今回の事件は非常に恥ずかしくて情けない

たしかに在特会らの言動そのものは、嫌悪感をもよおすものでしかありません。しかし、それを「クズ」というのは違うのではないでしょうか。そもそも「反対する会」は、在特会のような集団を生み出し容認してしまうこの社会の差別意識それ自体を、うかび上がらせ批判することを目的としています。在特会らが性格的に「クズ」であるかどうかは、問題ではありません。

くわえて、「言論で対抗すべき」というか「言論」でしか対抗しちゃいけないと言うのなら、ネットであれ雑誌であれをつかって、反対声明や批判を書けばいいだけのことでしょう。たしかにわたしたちは、南口前でシュプレヒコールによって抗議するという方法を選びました。しかしそれは、別な抗議のしかたを排除するためではありません。

また、そもそもこれまで在特会らが何をしてきたかを思い起こさないわけにはいきません。これまで在特会ら「行動する保守」は、商店や学校に押しかけたり集会を妨害したりということを繰り返し、多勢であるのをいいことに他人にけがを負わせたこともあります。1.24の在特会デモ終了時の騒動についても、かれらが被害の証拠としてみずから映像をアップしていますが、それを見ても、むしろかれらが大勢で数人の抗議者をかこんで脅迫しているさまが目につくはずです。

こうした状況をかんがみることなく「どっちもどっち」と結論づけて済ますのであれば、そもそもヘイトスピーチに反対する意味などありません。

(つづく)

【何が問題なのか】 1. これはヘイトクライムという現実である

1.24行動は一応やりとげることができましたが、そこで何が問題となっていたのか、何をわたしたちが問題にしようとしていたのかについては、じゅうぶんにあきらかにできていませんでした。以下、それを多少なりともこのブログでおぎなってみようと思います。
______________

わたしたちが行動タイトルに「あれがヘイトクライムだ!」とかかげたのは、あらためて日本社会の差別の現状をとらえなおし、それが他国で活発化している民族的、人種的、文化的などの差別となんら変わらないものであることを強調するためでした。そのために、せっかくこちらに「ヘイトクライム」の解説までつけたのですが、やや説明不足だったかもしれません。(ちなみに、分かりにくかったからか、うまく反論できないからか、この解説記事にはまったくヘイトコメントがついていません。)

そこで、ヘイトスピーチという問題をよりわかりやすくするために、誤解例を使いながらふたたび説明をこころみることにします。

さて、その解説記事では、ヘイトクライムを《人種、民族、出自、性別、セクシャリティなどの差異が人間の優劣を示していると決めつけ、それを根拠に特定の個人や集団に損害を与えること》と定義しました。つまり、一民族や文化などのちがいそのものではなく、そのちがいを不当にも「優劣関係」の根拠として使うことが問題だということです。そのように決めつけられた「優劣関係」にもとづいて他者をおとしめたり、他者への憎悪をあおること。それが差別でありヘイトスピーチです。
だから、

>日本人は戦争でひどいことをした、謝罪しろ
>と主張するのもヘイトスピーチになると思われますがどのようにお考えでしょう?
>傍目にはどっちもどっちとしかうつらないんですよ…

と書いたひとは、まずヘイトスピーチの基本的意味が分かっていません。「日本人は戦争でひどいことをした、謝罪しろ」は「日本人」という民族性そのものをおとしめているわけではありませんので。、いちおうついでに確認しますが、日本政府は戦争の罪を埋めあわせてはいないという意味で、謝罪をしていません

かんたんなことです。道を歩いていて車にはねられたのに、ケガの治療の補償もなにもなしに「ひいてごめんね。今度から気をつける」と言って済まされても、だれも謝罪を受けたとは思わないはずです。それこそ「傍目」にみてあきらかなことでしょう。

>日の丸反対って、ヘイトスピーチだよな

これもまちがいです。文化や民族性にかんする好き嫌いの表明そのものがヘイトスピーチではない。それがどこでどのようになされるのかがもっとも重要なポイントです。たとえば、日本で日の丸をかかげて「○○人をこの国からたたき出してやる」と言うことがヘイトスピーチです。名指した相手を「たたき出し」てもいい劣位の人間としてあつかうよう、扇動するおこないだからです。あるいは、もし「日の丸反対」がヘイトクライムでありうるとすれば、たとえばアメリカの日系人が周囲から差別を受けていて、その一環としてその日系人の家の前で日の丸が焼かれたときでしょう。

さらに恥知らずなコメントもあります。

>在日韓国人に参政権付与を認めるのは、日本国民にたいするヘイトに他ならないと思うが。
>それに何で嫌いな日本に住んで、嫌いな日本の参政権を欲しがるのかね。
>日本人を馬鹿にしてやしないかね。
>その日本人を馬鹿にした気持ちこそがヘイト、レイシズムだよ。
>在日こそが真性のヘイト、レイシストだ。

そもそも在日朝鮮人・韓国人が「嫌いな日本に住んで」いるという認識こそが、戦前からつづく朝鮮人差別の延長線上にあります。在日朝鮮人・韓国人は、みずから望んで日本の領土内に生まれてきたわけではありません※。そして、生まれ育った土地から出て行けだのなんだのと、他人に指図されたり強制されたりする筋合いがどこにあるのでしょうか。つまり、在日朝鮮人・韓国人が日本に住み続けるという選択にたいして、日本人がああだこうだ言うこと自体、過去の支配と差別をくりかえすことに等しいということです。
※ もちろん在日一世については、強制的または準強制的な連行、自身の選択、あるいは朝鮮戦争からの避難など、さまざまケースがあります。しかしどのケースも、日本が朝鮮半島を支配し日本列島より低い地位に置いたこと、また敗戦で公式な支配は終わっても朝鮮半島を低く見る認識を清算しなかったことに、深くかかわっていることにかわりありません。

また、在日朝鮮人・韓国人が「日本人を馬鹿にして」いるという根拠がどこにあるのか分かりませんが、いずれにせよ、歴史的に見れば、近代日本が朝鮮人を「馬鹿にした」のが問題の始まりであるということを認識しなければなりません。

>在日特権など無い、と桜井本人が言っていたし、在特会の目的は、普通の日本人に、在日朝鮮人差別意識を煽るつもりだったが、全く失敗だったね。
>大体、朝鮮人差別なんてもう無いんだよ、日本人の現実に。今更そんな時代に逆行した差別意識なんて作ろうって方が無理。

このコメントはどっちを批判しようとしているのかよくわかりませんが、「朝鮮人差別なんてもう無い」なんて、どこを見てそう言えるのでしょうか。たとえば「マンガ嫌韓流」のヒットは何なのでしょうか。

(つづく)


(2010.2.1 追記)
ようやく多少の論理性のあるコメントがついたので(2010-01-30 19:05)、それに答えさせていただきます。
ただ「論理性」があるといっても、歴史的にも道義的にもまったく説得力のある理屈とは言えませんが。

>>日本政府は戦争の罪を埋めあわせてはいないという意味で、謝罪をしていません。
>日韓基本条約で解決済み。
>韓国政府も、戦争補償については韓国政府が支給する認識を明確にしています。

1.まず「戦争の罪」一般を問題にしています。韓国「政府」への言い訳じみた措置を、さも戦争被害者全体への解決であるかのように偽らないでください。例えるとすれば、人を車でひいておいて、その被害者の診断も済まないうちに、しかも被害者本人ではなくその入院している病院に対して、適当な額の金を払って「はい謝ったからね」とそそくさ逃げるようなものです
2.しかも、そそくさ逃げるだけならまだいいもの。1965年の日韓条約における日本政府の態度は、もっとたちが悪い。このコメントが「解決」の根拠にしている条約は、正確には「日韓条約」ではなく「日韓請求権協定」ですが、この条約の正式名が「日韓請求権並びに経済協力協定」であるということを忘れてはいけません。当時、たしかに日本政府は韓国政府に「賠償金」を払いましたが、しかしその半額以上は「貸付」で、しかもそれは韓国への日本企業の進出のために意図されたことでした。さっきの例で言えば、車でひいた相手が入院している病院に、「金をやるからうちの医者をそっちで雇え」と言っているようなものでしょう。ようするに、戦後の日本政府のこれまでの「補償」の歴史とは、責任逃れの歴史でしかないのです。
※ 日本の戦後「補償」の実情については、内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』(山川出版社、2002年)がコンパクトにまとまっていて便利です。

>>文化や民族性にかんする好き嫌いの表明そのものがヘイトスピーチではない。
>意味不明。ますます在特会の言っていることは
>ヘイトスピーチじゃないってことになりますよ。

焦らずにちゃんと前後を読まれることをおすすめします。
いちおう繰り返すと、好き嫌いの表明が「どこでどのようになされるのかがもっとも重要なポイント」であり、つまり(それより前に書いてありますが)民族性や文化などの違いを、不当にも人間の「優劣」の証拠としてあげつらうことが問題なのです。

>>たとえばアメリカの日系人が周囲から差別を受けていて
>あなた方左翼がやってきたのがまさにそれ。
>日本人の目の前で日の丸を侮辱し
>在特会の活動を妨害したではないですか。

1.まず、在特会が差別扇動を行っていることをうやむやにしないでください。差別扇動の基準は上記のとおりです。
2.この方には上記例の意味がわからないようですので、解説してあげましょう。この例では、アメリカという場所で日系人が民族的マイノリティ(少数派)であることを前提としています。この場合、「周囲」のアメリカ人はその「日系人」に、「おまえはこの国に居るのにふさわしくない存在だ」と存在否定のメッセージを送っているということになります。ところで、24日対抗アクションの参加者は、日の丸を傘にきた差別をやめろと抗議しているのであって、別に在特会デモの参加者に「日本から出て行け」と言っているわけではありません。
こういう陳腐な「どっちもどっち」の理屈を、論理の混同やすり替えと言います。そういうやりかたで在特会の差別行為をごまかすことはできません。

>>戦前からつづく朝鮮人差別の延長線上にあります。
>在日朝鮮人は日本国籍を持っていません。
>だから日本に住む上で不都合な点があるのは当然です。
>それは日本人が外国に住んでも同じことですよ。
>在日朝鮮人は、それを「差別だ」「謝罪と賠償だ」
>と騒ぎを起こし、警察署を襲撃したり、役所を襲撃したり
>してきたりしてきました。
>通常の人間なら、そういう人と仲良くしたいと思いません。

>>在日朝鮮人・韓国人は、みずから望んで日本の領土内に生まれてきたわけではありません
>いいえ、みずから望んで日本に来た人がほとんどです。
>日韓併合から終戦まで、朝鮮人は仕事を求めて日本に渡ってきました。
>あまりに多すぎて、政府が渡航制限令を出したほどです。

ここに、もっとも悪質な支配者の理屈が表れています。かつて「日本臣民」(ただし二級市民)へと変えようとしていた人びとに対して、自分の都合にあわせて「日本人でないくせに」とか「望んで日本人になろうとしていたくせに」とか勝手なことを言う、支配者の理屈です。順番に説明しましょう。
1.そもそも、かつてのある時期には朝鮮人全員が「日本」国籍を持っていました。より正確に言えば、大日本帝国期には日本の植民地官庁(朝鮮総督府)が「朝鮮戸籍」というタイプの日本国籍を朝鮮人に発行していました。つまり、この頃から「おまえたちは皇国臣民だ」と「おまえたちは日本人ではない」という支配のダブルスタンダードが制度化されていたわけです。そして敗戦を迎えるやいなや、日本政府は、かつて日本臣民へと作り変えようとした人びとを外国人として排除する方向に動き出します。それは1952年のサンフランシスコ講和条約をもって完全に達成されます。この、自分の都合に合わせて他者を「自国人」にしたり「外国人」にしたりすることをなんとも思わない心性が、このコメントにはありありと表れています。これが「通常の人間」の考えることなのでしょうか
2.まず、ここでは、「来た」人ではなく「生まれた」人である二世以降のことを言っています。そのうえで、「来た」人である在日一世についても、その少しあとできちんと言及しています。論旨をすり替えるのはやめてください。なお一世については、強制連行、半強制、自主的な渡航、どのケースもあったことを述べてあります。ただし、これだけは認識しておかねばなりません。自由意志によってであろうがそうでなかろうが、日帝期に朝鮮の人びとが日本に渡って来たことと、日本が朝鮮半島や東アジアの諸地域を支配し収奪していたという事実は、切り離せないということです。こうした事実を見ることなく「朝鮮人は望んで日本に来た」と言えてしまうのは、その人がいまだ植民地支配者の想像力にとりつかれているということに他なりません。

ヘイトクライムについて――「日本に差別は存在しない」?


こちらにも書いたように、日本は人種差別撤廃条約をむすんでいるものの、そのうち実際の処罰にかかわる条文のみを「留保」しています。
その理由を政府は、日本には「人種差別禁止の罰則規定付きの立法を検討しなければならないほどには、人種差別思想の流布や人種差別の扇動はない」からだとしています。

しかし、いまやこの社会は、自称「行動する保守」らが街で堂々と差別発言をばらまくことを、許容してしまっています。はたしてこれでも「人種差別の扇動はない」と言えるのでしょうか。

とはいえ、問題は法・政治の欠陥や不作為(=「わざとそうしない」こと)だけではありません。
日本社会の差別にたいする感受性のなさを、何度でも問いなおすべきです。
そのために、この国ではまだなじみのない「ヘイトクライム」ということばを取り上げてみます。

***

定義としては、ヘイトクライム(憎悪犯罪)とは《人種、民族、出自、性別、セクシャリティなどの差異が人間の優劣を示していると決めつけ、それを根拠に特定の個人や集団に損害を与えること》だと言えるでしょう。

たとえばアメリカでは、ヘイトクライムへの処罰は、大きく分けてふたつの方法で行われています。
ひとつは、いくつかのヘイトクライムを新しい犯罪カテゴリとする方法です。たとえば、1994年には「対女性暴力関係法」が設定されています。
もうひとつは、すでに存在するカテゴリの犯罪が差別的な理由でなされたとき、それをよりきびしく罰する方法です。「理由」と言っても、個人の信条や内面にふみこむということではなく、実際になされた犯行の事実を検証することによって、それに差別的な意味がこもっているかどうかを測ります。

ヘイトクライムと聞くと、「考え方や信条のレベルで人が犯罪者であるかどうかを判断するのか」と誤解する人が多いように見えますが、それが間違いなのは、上のことから明らかです。
たとえば在特会は、かれらの公開している映像を見るだけでも、暴行や脅迫や威力業務妨害などで十分立件しうることを行っています(また、それを立件しようとしない警察の言う「中立」がごまかしであることも批判されるべきです)。ですがそれだけではなく、特定の個人や集団にたいして大声で「日本から出て行け」「東京湾に出て行け」と叫び、差別を扇動しています。
ですから法学的に見て、かれらのふるまいこそヘイトクライムの典型と言えます。

もうひとつ重要なこと、それはヘイトクライムがただの「単発の犯罪」ではないということです。
法学者の前田朗さんが紹介しているナタン・ホール著『ヘイト・クライム』によれば、ヘイトクライムは「個別の犯罪が関連を持って継続する<過程>」であり、「身体的暴力、威嚇、脅迫の継続」を特徴としています。
しかも、その結果として「特定個人だけが被害を受けるのではなく、事件の発生による恐怖はその瞬間を越えて広が」るのです(前田朗Blog)。
まさにこれは、自称「行動する保守」のやっていることに、そしてそれがもたらす被害に、当てはまります。かれらのふるまいは、特定の個人や団体をおびやかすだけではありません。在日外国人を、とくに在日朝鮮人・韓国人を、ひいては、民族や国籍の違いによらず互いを認めあいながら生きられる社会を求めるすべての人を、「日本」や「国家」をふりかざして踏みにじるものに他なりません。

***

とはいえ、ヘイトクライムが国家の法律に反映されるかどうかよりも、この社会がそういうことを道徳的・倫理的な「罪」として感じ、それを拒否することができるかどうかが重要です。

さきに紹介したホールは、こうも言っています。「この〔ヘイトクライムという〕言葉が使われるよりずっと以前から、アメリカにおいてはネイティヴ・アメリカン、アフリカ系アメリカン、アジア人移住者に対して、リンチ、奴隷化、ジェノサイド、偏見による行為が実に長いこと続いた」と。
つまり、前田さんも言うように「ヘイト・クライムが新しいのではなく、社会的関心が新しい」のです(前田朗Blog)。

日本社会でもことは変わらない。
自称「行動する保守」なる集団が現れるずっと前から、この社会では、人種、宗教、出自、民族、ジェンダー、性的志向などの違いを根拠にして、ひとがひとに、また国家がひとに屈辱を与えることが、あまりにも多かった。また、そのことがあまりにも許容されすぎた。
だとすれば、そういうことを改めて問いなおそうとする言葉のひとつが、ヘイトクライムあるいは憎悪犯罪であるはずです。
そして差別は、自称「行動する保守」の出現を許容してしまうような社会風潮は、なんどでも「改めて」「くりかえし」問いただされなければなりません。


人種差別の流布・扇動を処罰する 「人種差別撤廃条約」

※ この分析記事は「外国人排除デモに反対する会」ブログからの転送です。このアクションは、「ヘイトスピーチに反対する会」結成のきっかけとなっています(参照)。
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「人種差別の正当化や助長の扇動やその行為は、違法として禁止し、法律で処罰すべき犯罪である。」
こういう法制度が日本社会に存在していれば、4.11の「外国人排斥デモ」も全く違った形になっていたかもしれません。
日本も加入している「人種差別撤廃条約」の第4条は、人種差別の流布・扇動を処罰する義務を加盟国に課しています。
条文は次のように書かれています。

 ‥‥‥‥‥  ‥‥‥‥‥  ‥‥‥‥‥

第4条(人種的優越又は憎悪に基づく思想の流布、人種差別の扇動等の処罰義務)

 「人種差別の正当化や助長の扇動やその行為は、違法として禁止し、法律で処罰すべき犯罪である。」
 こういう法制度が日本社会に存在していれば、4.11の「外国人排斥デモ」はそもそも認められなかったでしょう。
 日本も加入している「人種差別撤廃条約」の第4条は、人種差別の流布・扇動を処罰する義務を加盟国に課しています。
 条文は次のように書かれています。

 第4条(人種的優越又は憎悪に基づく思想の流布、人種差別の扇動等の処罰義務)
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。
 このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。
(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/jinshu/conv_j.html

 ‥‥‥‥‥  ‥‥‥‥‥  ‥‥‥‥‥

 4.11の「追い出しデモ」の主催者(「在日外国人の特権を許さない会」)と参加者は、(b)の条項に引っかかる処罰されるべき「犯罪」を犯しているのではないでしょうか。

 しかし日本政府は、条約には加盟しているが4条のaとbについては「留保」するという対応のため、「在特会」の活動も、差別として法的に問われることがありません。

 処罰規定を設けることを避けてきた理由として、政府は次の点を挙げています。
 第一に、憲法が保障する表現の自由との兼ね合いと言う問題があること。
 第二に、現在の日本においては、既存の名誉毀損や脅迫罪などでこうした事例の処罰が可能であり、人種差別禁止の罰則規定付きの立法を検討しなければならないほどには、人種差別思想の流布や人種差別の扇動はないということ。

 しかし、そもそも深刻な差別は存在しないという認識が、現実とズレています。
 また「表現の自由」を恣意的に持ち出したところで、何が差別にあたるのかを実態や歴史的経緯にそくして理解する責任を、この人種差別撤廃条約を批准している国家が避けることはできません。
 もちろんそのような態度は、差別問題の解決ではなく、差別の現状を無視することです。

 わたしたちの課題を考える手がかりとして、国連人権委員会が2006年に公表した報告書があります。「人種差別撤廃条約」加盟国の差別撤廃にむけた取り組みの進捗状況を調査した同委員会特別報告者ドゥドゥ・ディエンは、日本での調査に基づいて次のような勧告を出しています。

 「日本政府は、・・・日本社会に人種差別および外国人嫌悪が存在することを、正式かつ公式に認めるべきである。」
 「政府はまた、日本社会における人種差別・外国人嫌悪の歴史的および文化的根本原因も正式かつ公的に認め、これと闘う政治的意思を明確かつ強い言葉で表明すべきである。そのようなメッセージは社会のあらゆるレベルで差別や外国人嫌悪と闘う政治的条件を作り出すだけでなく、日本社会における多文化主義の複雑な、しかし深遠なプロセスの発展を促進することになるだろう。」

 【参考】
 日本政府の見解など
 http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/jinshu/index.html
 日本における現代的形態の人種主義、人種差別、外国人嫌悪および関連する不寛容に関する国連特別報告者の報告書(2006年1月)
 http://www.imadr.org/japan/pdf/DieneReportJapanJ.pdf
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