【何が問題なのか】 4. 差別主義者は法律がお好き?
どんな時代のどんな社会においても、法はありました。ということは、歴史の変化にしたがって法も変わってきたということです。ということは、法の根拠は人間の社会生活にあるということです。この最後の点は重要です。決して、法律があるから人間や社会があるわけではないのです。
その点をふまえたうえで、法というものが、社会における差別という現実に対して決して中立ではないということ、ゆえにそれは問われ変えられなければならないということを、考えてみたいと思います。
>参政権は国家の主権者は国民であるという事です。
>権力者が国家の主権を国民から奪う法案に賛成するのですか?
>他の国の国民の主権はそれぞれの国の国民が尊重すべきなのではないのでしょうか。(偽りではない真の平和主義者より)
その「国民」という考えかたそのものの閉鎖性・排他性が、そもそもの問題です。
他の民主主義国家では、まず《市民権》という考えかたがあります。つまり、人はまず「社会への参加」をもって他の社会成員を互いに認め合い、それを中央や地方の政府が市民権として追認する、というかたちです。この考えかたにおいて、「国家の成員」という意味での「国民」であるかどうかは、少なくとも形式的には、生まれや文化や民族などに縛られることはありません。
しかし、日本における「国民」は、非常に血統主義的です。近代日本の「国籍」という概念は、市民権とは違い、その国家に帰属していることを国家が「上から」認める、という性質のものです。そのうえで、「上」が国籍を認める・認めないの基準が、血統になるというわけです。日本がこのようなやりかたをとるかぎり、つまり「社会への参加」ではなく「血統」でしか国籍を認めないかぎり、「在日朝鮮人は日本国民になればいい」という主張は支配者の理屈でしかありえません。
このように、この国では「国民」の範囲が非常に狭く閉じられているからこそ、「国民」から排除される人びとへの権利承認の問題が、「外国人」参政権というかたちで問題化しているだけです。あくまで問題は、民族的・文化的他者を政治主体として承認できるかどうかでしかありません。それができないかぎり、日本社会は差別という現実を抱え続けるでしょう。繰り返しますが、法律があるから人間や社会があるわけではないのです。
>サヨクが外国人参政権法案を推進してるけど、
>サヨクは元々、一般市民の主権なんか認めていない。
いろいろと論理が倒錯しています。まずそもそも、外国人参政権法案の推進それ自体は、別に「サヨク」じゃなくても推進します(小沢が左翼なわけないでしょ)。それと、外国人参政権を認めることと、「一般市民」の権利を否定することが、いったいどう結びつくのでしょうか(国籍に関係なく、同じ社会のなかで生活している人はみな「一般市民」です)。そこで否定される「権利」があるとすれば、それは「一般市民」がマイノリティを劣位に置く「権利」だけでしかないでしょう。
ところで、「主権」という言葉を誤用している人が多くいますが、そんなに法律談義をしたいなら、もうすこし法学の基本を勉強してほしいものです。主権とは、個々の市民や国民ではなく国家がもつものであって、個々人の権利を「主権」とは言いません。「国民主権」とは、国家の主権の根拠が、王様や貴族ではなく、集合体としての「国民」にあるという思想の表現です。そして、この「国民」という概念が日本ではどれほど閉鎖的なものであるかは、上に述べたとおりです。
>でも簡単に説明すると在日韓国人は大韓民国の国民です。だから彼らには大韓民国の選挙権も被選挙権もあります。
>現在の大統領も元々在日だし、過去には国会議員も何人か出ています。
>このような人達が更に日本の選挙権を持つとは、つまり2重の選挙権を持つことになります。
>しかも最終的に日本の運命に責任は持たなくて良いのです。
まず事実誤認をただしますが、まず、イ・ミョンバクは日本敗戦のときに朝鮮半島に戻っているので、いま言われている「在日韓国人」ではありません。
そのうえで指摘したいのは、ここにはっきりと、政治参加が「特権」であるという、日本ならではの閉じた発想(前記事参照)があらわれているということです。
そもそも、血統主義をとらないほとんどの国では、二重国籍(あるいは市民権)が認められています。その背景には、先にも説明したように、多くの国には「社会への参加」をもって市民権あるいは国籍を認めるという法的思想があるからです。その点にかつての出自は関係ないし、政治参加の権利は、同じ社会に参加している者どうしで認め合うのが当たり前のことなのです。同じ社会に暮らしているということが、すでに「共同性」や「同じ利害」をもつことにつながるのですから。(もちろん、そうした思想が実現されているのは、マイノリティの権利獲得運動の結果であるわけですが。)
そしてこの「共同性」や「同じ利害」とは、このコメントで言われている「日本の運命」という共通性とは対極にあるものです。どうやらこの「運命」は、人びとの意志や生き方とは無関係に、「日本人」としての生まれという一点だけを根拠としているようです。ですが、そのような共通の運命など存在するのでしょうか。あらかじめ閉じられた輪のなかにだけ共有されている「運命」。あるいは、その「そと」にあるものとは共有できず、あるいは共有しようとすると「奪わ」れなくなってしまうような「権利」。そのような「運命」や「権利」という幻想にすがりつづけ、分かち合うことによって豊かになっていける可能性を想像できないような社会に、はたして未来はあるのでしょうか。
その点をふまえたうえで、法というものが、社会における差別という現実に対して決して中立ではないということ、ゆえにそれは問われ変えられなければならないということを、考えてみたいと思います。
>参政権は国家の主権者は国民であるという事です。
>権力者が国家の主権を国民から奪う法案に賛成するのですか?
>他の国の国民の主権はそれぞれの国の国民が尊重すべきなのではないのでしょうか。(偽りではない真の平和主義者より)
その「国民」という考えかたそのものの閉鎖性・排他性が、そもそもの問題です。
他の民主主義国家では、まず《市民権》という考えかたがあります。つまり、人はまず「社会への参加」をもって他の社会成員を互いに認め合い、それを中央や地方の政府が市民権として追認する、というかたちです。この考えかたにおいて、「国家の成員」という意味での「国民」であるかどうかは、少なくとも形式的には、生まれや文化や民族などに縛られることはありません。
しかし、日本における「国民」は、非常に血統主義的です。近代日本の「国籍」という概念は、市民権とは違い、その国家に帰属していることを国家が「上から」認める、という性質のものです。そのうえで、「上」が国籍を認める・認めないの基準が、血統になるというわけです。日本がこのようなやりかたをとるかぎり、つまり「社会への参加」ではなく「血統」でしか国籍を認めないかぎり、「在日朝鮮人は日本国民になればいい」という主張は支配者の理屈でしかありえません。
このように、この国では「国民」の範囲が非常に狭く閉じられているからこそ、「国民」から排除される人びとへの権利承認の問題が、「外国人」参政権というかたちで問題化しているだけです。あくまで問題は、民族的・文化的他者を政治主体として承認できるかどうかでしかありません。それができないかぎり、日本社会は差別という現実を抱え続けるでしょう。繰り返しますが、法律があるから人間や社会があるわけではないのです。
>サヨクが外国人参政権法案を推進してるけど、
>サヨクは元々、一般市民の主権なんか認めていない。
いろいろと論理が倒錯しています。まずそもそも、外国人参政権法案の推進それ自体は、別に「サヨク」じゃなくても推進します(小沢が左翼なわけないでしょ)。それと、外国人参政権を認めることと、「一般市民」の権利を否定することが、いったいどう結びつくのでしょうか(国籍に関係なく、同じ社会のなかで生活している人はみな「一般市民」です)。そこで否定される「権利」があるとすれば、それは「一般市民」がマイノリティを劣位に置く「権利」だけでしかないでしょう。
ところで、「主権」という言葉を誤用している人が多くいますが、そんなに法律談義をしたいなら、もうすこし法学の基本を勉強してほしいものです。主権とは、個々の市民や国民ではなく国家がもつものであって、個々人の権利を「主権」とは言いません。「国民主権」とは、国家の主権の根拠が、王様や貴族ではなく、集合体としての「国民」にあるという思想の表現です。そして、この「国民」という概念が日本ではどれほど閉鎖的なものであるかは、上に述べたとおりです。
>でも簡単に説明すると在日韓国人は大韓民国の国民です。だから彼らには大韓民国の選挙権も被選挙権もあります。
>現在の大統領も元々在日だし、過去には国会議員も何人か出ています。
>このような人達が更に日本の選挙権を持つとは、つまり2重の選挙権を持つことになります。
>しかも最終的に日本の運命に責任は持たなくて良いのです。
まず事実誤認をただしますが、まず、イ・ミョンバクは日本敗戦のときに朝鮮半島に戻っているので、いま言われている「在日韓国人」ではありません。
そのうえで指摘したいのは、ここにはっきりと、政治参加が「特権」であるという、日本ならではの閉じた発想(前記事参照)があらわれているということです。
そもそも、血統主義をとらないほとんどの国では、二重国籍(あるいは市民権)が認められています。その背景には、先にも説明したように、多くの国には「社会への参加」をもって市民権あるいは国籍を認めるという法的思想があるからです。その点にかつての出自は関係ないし、政治参加の権利は、同じ社会に参加している者どうしで認め合うのが当たり前のことなのです。同じ社会に暮らしているということが、すでに「共同性」や「同じ利害」をもつことにつながるのですから。(もちろん、そうした思想が実現されているのは、マイノリティの権利獲得運動の結果であるわけですが。)
そしてこの「共同性」や「同じ利害」とは、このコメントで言われている「日本の運命」という共通性とは対極にあるものです。どうやらこの「運命」は、人びとの意志や生き方とは無関係に、「日本人」としての生まれという一点だけを根拠としているようです。ですが、そのような共通の運命など存在するのでしょうか。あらかじめ閉じられた輪のなかにだけ共有されている「運命」。あるいは、その「そと」にあるものとは共有できず、あるいは共有しようとすると「奪わ」れなくなってしまうような「権利」。そのような「運命」や「権利」という幻想にすがりつづけ、分かち合うことによって豊かになっていける可能性を想像できないような社会に、はたして未来はあるのでしょうか。