ヘイトクライムについて――「日本に差別は存在しない」?
こちらにも書いたように、日本は人種差別撤廃条約をむすんでいるものの、そのうち実際の処罰にかかわる条文のみを「留保」しています。
その理由を政府は、日本には「人種差別禁止の罰則規定付きの立法を検討しなければならないほどには、人種差別思想の流布や人種差別の扇動はない」からだとしています。
しかし、いまやこの社会は、自称「行動する保守」らが街で堂々と差別発言をばらまくことを、許容してしまっています。はたしてこれでも「人種差別の扇動はない」と言えるのでしょうか。
とはいえ、問題は法・政治の欠陥や不作為(=「わざとそうしない」こと)だけではありません。
日本社会の差別にたいする感受性のなさを、何度でも問いなおすべきです。
そのために、この国ではまだなじみのない「ヘイトクライム」ということばを取り上げてみます。
***
定義としては、ヘイトクライム(憎悪犯罪)とは《人種、民族、出自、性別、セクシャリティなどの差異が人間の優劣を示していると決めつけ、それを根拠に特定の個人や集団に損害を与えること》だと言えるでしょう。
たとえばアメリカでは、ヘイトクライムへの処罰は、大きく分けてふたつの方法で行われています。
ひとつは、いくつかのヘイトクライムを新しい犯罪カテゴリとする方法です。たとえば、1994年には「対女性暴力関係法」が設定されています。
もうひとつは、すでに存在するカテゴリの犯罪が差別的な理由でなされたとき、それをよりきびしく罰する方法です。「理由」と言っても、個人の信条や内面にふみこむということではなく、実際になされた犯行の事実を検証することによって、それに差別的な意味がこもっているかどうかを測ります。
ヘイトクライムと聞くと、「考え方や信条のレベルで人が犯罪者であるかどうかを判断するのか」と誤解する人が多いように見えますが、それが間違いなのは、上のことから明らかです。
たとえば在特会は、かれらの公開している映像を見るだけでも、暴行や脅迫や威力業務妨害などで十分立件しうることを行っています(また、それを立件しようとしない警察の言う「中立」がごまかしであることも批判されるべきです)。ですがそれだけではなく、特定の個人や集団にたいして大声で「日本から出て行け」「東京湾に出て行け」と叫び、差別を扇動しています。
ですから法学的に見て、かれらのふるまいこそヘイトクライムの典型と言えます。
もうひとつ重要なこと、それはヘイトクライムがただの「単発の犯罪」ではないということです。
法学者の前田朗さんが紹介しているナタン・ホール著『ヘイト・クライム』によれば、ヘイトクライムは「個別の犯罪が関連を持って継続する<過程>」であり、「身体的暴力、威嚇、脅迫の継続」を特徴としています。
しかも、その結果として「特定個人だけが被害を受けるのではなく、事件の発生による恐怖はその瞬間を越えて広が」るのです(前田朗Blog)。
まさにこれは、自称「行動する保守」のやっていることに、そしてそれがもたらす被害に、当てはまります。かれらのふるまいは、特定の個人や団体をおびやかすだけではありません。在日外国人を、とくに在日朝鮮人・韓国人を、ひいては、民族や国籍の違いによらず互いを認めあいながら生きられる社会を求めるすべての人を、「日本」や「国家」をふりかざして踏みにじるものに他なりません。
***
とはいえ、ヘイトクライムが国家の法律に反映されるかどうかよりも、この社会がそういうことを道徳的・倫理的な「罪」として感じ、それを拒否することができるかどうかが重要です。
さきに紹介したホールは、こうも言っています。「この〔ヘイトクライムという〕言葉が使われるよりずっと以前から、アメリカにおいてはネイティヴ・アメリカン、アフリカ系アメリカン、アジア人移住者に対して、リンチ、奴隷化、ジェノサイド、偏見による行為が実に長いこと続いた」と。
つまり、前田さんも言うように「ヘイト・クライムが新しいのではなく、社会的関心が新しい」のです(前田朗Blog)。
日本社会でもことは変わらない。
自称「行動する保守」なる集団が現れるずっと前から、この社会では、人種、宗教、出自、民族、ジェンダー、性的志向などの違いを根拠にして、ひとがひとに、また国家がひとに屈辱を与えることが、あまりにも多かった。また、そのことがあまりにも許容されすぎた。
だとすれば、そういうことを改めて問いなおそうとする言葉のひとつが、ヘイトクライムあるいは憎悪犯罪であるはずです。
そして差別は、自称「行動する保守」の出現を許容してしまうような社会風潮は、なんどでも「改めて」「くりかえし」問いただされなければなりません。