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【講演】部落解放運動の経験から見た人種差別撤廃条約(友常勉)後編


もくじ / 前編 / 後編


差別禁止と権利保障

以上、個別部落解放運動の経験とダーバン会議の経験を踏まえたうえで、今日のディスカッションの中で役に立つような論点を僕の方から話してみたいと思います。人種差別撤廃条約と差別禁止法をめぐる一般的な争点ということです。

人種差別撤廃条約は、第1部が定義と様々な履行措置で、第2部が手続き論になっています。第4条は、「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。a項「扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言、b項「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること」、そしてc項「国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めない」。第4条はそのような内容です。

実は第5条は、同じ問題を扱いながら、向かっている方向が少し違います。第5条は権利保障が主張されています。「あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障することを約束する。4条と5条は二つの違う方向を向いている条項です。

4条を中心に考えるか5条を中心に考えるかで、締約国あるいはさまざまな国の差別に対する取り組みが変わります。ややラフに分けてしまうと、4条は差別禁止、「表現の自由」も抑制する強い規制ですね。団体活動を犯罪として処罰する。そういう方向での差別禁止法を採っているのは、イギリスやフランス、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリアなどがあります。憎悪扇動、ハラスメント、出版など、差別擁護の禁止を規定しています。イギリスの人種関係法もすごく厳しいですね。ニュージーランド、オーストラリアは国際人権裁判所と直結しているので、ある意味で第4条がそのまま踏襲されているような内容です。フランスは「反人道罪」が生きている、生かせるように運動を作ってきた歴史を持っていますので、そのような意味での差別禁止法を持っています。

これに対して権利保障の方に比重を置いているのはどこかというと、僕はアメリカだと思います。アメリカの「公民権法」は、実は権利保障の方を重視する法律です。これは僕の言葉になりますが、「表現の自由」は一定保障します。マイノリティの権利保障、保障拡大の法体系に向かっているんです。権利保障、補償、施策体系を通してその中に差別禁止条項を包括する。あるいは差別禁止条項そのものは、時にはその中で抑制もされます。アメリカの公民権法は、segregation、黒人はこっち、白人はこっちというように完全に分けられていたのを、それは差別だからさせないということです。ですから、それが整備されて雇用、公共施設、教育における差別禁止という表現になっています。ただ、同時に1964年公民権法は、アファーマティブ・アクションも一緒に決めました。つまり権利保障ですね。マイノリティの人口比率に応じて、優先的に雇用や教育を保障するという施策です。実は、日本の同和対策事業はアファーマティブ・アクションにすごく近いんですね。インドでもダリトに対して行われていますが。

だから、アメリカではネオナチがデモをするのは禁止されていません。州による違いまでは僕もちゃんとカバーはしていないですが。ただそれに対して、それが具体的な公共の場面で、公民権の、日本で言えば市民的権利の阻害になるのであれば、それは差別の禁止の条項に当たるということで、積極的な是正が必要になります。

ちなみに、ここまで言っていいのかどうかわかりませんが、三日前までアメリカでリサーチをしていたせいもあって思ったことです。今、オバマが「移民制度改革法」に着手して発言をしています。いわゆる不法移民を移民として認める、アメリカのシチズンとして受け容れる(移民とシチズンは少し違うので正確ではありませんが)。つまり、不法移民というステイタスの「不法」を取る、ということなんですね。500ドルの罰金を払えば合法移民になれるという施策に着手をしようとしています。恐らくそれは、いろいろな議論の中ではマイノリティ票を獲得するための口実なのではないかとも言われていますが、実はそれに賭けている様々な不法移民がアメリカにはたくさんいて、30年ぐらい不法移民でホームレスをしている人なんてたくさんいるわけですね。30年間もそういう状態にあるアジア系の人たちも含めていますから、そういう境遇の人たちがこの制度改革法に期待をすることはあるだろうと思います。ともかく、これもまた権利保障という概念の拡張・拡大の方向を採っています。

ですから、差別禁止と権利保障・保障の拡充化という二つの方向、第4条と第5条はある意味で相互補完的ということも考えようによっては可能ですし、しかし違う方向に向かっているとも言えます。そして、それに基づく法体系を持っている国の差があるということが言えます。


日本政府の法意識と人種差別撤廃条約

では、日本はどうでしょうか。差別禁止法そのものに関して、僕が部落解放基本法や1980年代の議論の中で見てきて思うのは、やはりそれを実際に実効的に使うための大衆的な世論や組織がないと、国内の刑事法体系の中の厳罰化、あるいは警察権力が私事に介入する危険性を伴うということです。ですから、差別禁止法は必ずそれを考慮しながら考えなければならないと思っています。同時に、そうなると日本では、そもそも法意識や法風土の歴史的な考察が必要になるだろうと思います。

第4条的な地域・国家と第5条的な地域・国家の二つの法意識を述べましたが、実は、あいだを採っているのがたぶんインドかなと思います。インドのケースに関して言うと、権利保障を重視し、その中に差別禁止法も包括する。しかし、それでは実際のカースト差別は済まないので、国内の法体系の中でどんどん厳罰化が進んでいるように思います。厳罰化が進んだからといって、みなさんご存知のように、最近のカースティズム、インドカースト資本主義はもっともっと暴力的になっていて、ダリトの人たちに対して、殺人を含んだ激しい暴力がふるまわれています。

もう一つの論点は個人通報制度です。個人通報制度を日本国政府が認めない理由は何かというと、端的に言って国籍条項だろうと思います。日本国憲法の第14条の国民の権利、第15条の公民権、第16条請願権、第17条国家賠償請求権、それぞれ「国民の権利」の中に一括されています。日本政府が実際に「司法の独立」というときに、その「司法の独立」は、公民権、請願権、国家賠償請求権それぞれが、「国民」だから許容されているわけですね。それは「国民」に保障されるという立場なわけで、「国民」であることを前提として司法は遂行される。だから「司法の独立」とはつまり、それは飽くまで閉鎖的な国内的な法ということです。それを侵害されるような国際法の優位は認められないというのが本音だろうと思います。それと同時に、つまり国内法の優位に対して国際法を定義するのは、国家利害を優先するということだろうと思います。

実際、「司法の独立を通して」とか「個人通報制度を認めない」という作文をした時の外務省の中で、はたしてどういう議論があったのか僕はわかりませんが、例えばこういうことを考えて書いたのではないでしょうか。在日韓国人・朝鮮人、そして中国人その他の在日外国人が、日本国内で様々な市民的な生活において権利侵害を受けていると国連の人種差別撤廃委員会に通報する。その場合、何が起きるかをまず考えるということですね。あるいは、沖縄の基地の集中の状況に対して沖縄住民が通報したらそれはどうなるか。いずれも間違いなく人種差別撤廃条約に抵触すると思います。恐らく、そういうことに対して最初にディフェンスを張ったということが、個人通報制度を妨げている要因ではないかと考えています。つまり、憲法を根拠にした彼ら法務官僚なり外務省なりの問題意識はそういうことなのではないかと思います。


「未完のテキスト」を使うということ

三番目は、もっと抽象的な話です。日本社会の法意識の問題はやはりどうしても考えざるを得ないのではないかと思うので、レジュメに付け加えておきました。現在の自民党の改憲草案が出たおかげで、どうしても憲法の歴史などを勉強しなければならなくて、読み直したりしながら思うことです。

戦後憲法は第9条を持っていますから基本的に平和憲法ですが、第1条に象徴天皇制が置かれているように、そして様々な任命や外交使節の応接に関して天皇が用いられるように、それ自体は大日本帝国憲法の枠組みを継承している部分があります。帝国憲法は三大天皇大権を持っていました。国防、外交、官制です。そのいずれも象徴天皇的な役割が現在の憲法の中に残されています。ですから、現在の憲法は旧憲法の名残を濃厚にとどめているわけですね。それは、国家主義的な家族主義、国民主義の立場を採った家族主義に解釈することが可能です。それが先ほど申し上げたような「司法の独立」の一つの枠組みを作っているのではないかと思います。

もちろん、「国民の権利」の中には個人主義もきちんと保障されています。ですが、それはむしろ国民主義と個人主義が並置しているのが現行憲法の性格であると理解したほうがいいのではないかと思います。そうすれば、どちらを解釈していくかによって、憲法の運用が変わるということになります。「国民」を戦前憲法との連続の中で考えるか、それともそこに混ぜられている個人主義・個人の権利を守るという方向で解釈し運用する方向になるか、そういう立場の幅を孕んでいるのが実は憲法というテキストなんだと思います。

ですから、いったん、国民主義的な、あるいは国家主義的な方向に解釈するとなれば、基本的には憲法にかかわる問題は法務官僚やお上に任せておけばいいという意識もありますし、あるいは官僚の側からすれば国民に任せる必要はない、ということになります。実際、現在の自民党の改憲草案を見ると、あの中に法学者は積極的に参加してないと言われていますが、間違いなく官僚は作文には参加しています。つまり、民主党政権や自民党政権で様々に首相が代わりましたが、あれは政権が代わっても国家的な運営が安定することが可能な自民党改憲草案です。次に自民党の代わりに民主党が政権を取ったとしても、改定された憲法は生きるように出来上がっています。ですから、あそこには濃厚に官僚主義が反映しています。「国民」ではなく、政党でもなく、官僚が、きちんと国家を運営できることが可能な体制が憲法の中に盛り込まれています。それがいつも可能なようになっています。ですから、官僚主義的な国家主義というものが孕まれていると思います。法制度はやはり市民が監視しきらなければいけないと思います。

そういう意味では、日本国憲法だけでなく一般的に言えることですが、憲法とは「未完のテキスト」ですね。完成されたテキストではなくて空白部分がいっぱいあるので、我々が書き込まなくてはいけないテキストなわけです。だからそういう意識で憲法は使わなければいけないんだろうと思います。恐らくそれは、人種差別撤廃条約のように、非常に細部まで書き込まれたものに関しても言えるのではないかと思います。


運動の経験から

最後にそのような観点で、部落解放基本法制定要求運動などの経験から思うことをレジュメに書いておきました。
一つは、個別人権闘争の歴史的成果です。こちら側から憲法を解釈していくということですが、そういう蓄積を批判的に読み直す必要があるだろうと思います。八鹿高校の裁判の大阪高裁の判決は、糾弾権を認めた画期的なものでした。しかし、裁判所は判決に、日本には被差別者への積極的な権利の保障や、差別的な経験や被害を受けた際の救済措置がないということも盛り込んだんですね。それを運動は、「それ見たことか」と、やはり救済措置が必要だ、部落解放基本法が必要だという議論に傾いたんですね。

しかし、解釈としてそれはどうなのでしょうか。裁判所は「救済措置がない」と言いましたが、それを運動がどのように受け止め、理解すべきかは、実は批判的な理解が必要だったのではないかと思います。ですから、人権闘争は必ず歴史的成果を蓄積してきたと思いますが、それをどういう方向で読み解くかがやはり求められると思います。

それからもう一つは、アメリカの公民権とアファーマティブ・アクションの組み合わせがもちろんベストとは言いませんが、やはり僕がどうしてもそちらの方向で考えてしまうのですが、全体の総合的な差別からの被差別者・マイノリティの権利保障の中に、差別禁止をどう包括するかという発想が重要ではないかと思います。ですから、差別禁止もやっぱりある程度の抑制が必要、つまり時限あるいは制限が必要なのではないかと思います。それと同時に、法的な規制、救済保障のような拡充を進めることを考えていってはどうだろうかと思っています。いずれにしても、これは運動が作り上げることですので、運動の中で実体化していけばいいことであって、飽くまでも問題提起にすぎません。

なお、補足として、日本政府が批准していないものの中で、今日ちょっとだけ紹介しておこうと思ったのは、国連の障害者権利条約です(補注:この講演報告のあと、2013年12月4日、日本の参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立に伴い、国内の法律が条約の求める水準に達したとして、条約の批准を承認した。日本国の批准は2014年1月20日付けで国際連合事務局に承認されている)。これは障害者の自己決定権というのを非常に主張に強く打ち出した法律で、2006年に採択されたものです。権利条約の部類の中ではずいぶん新しい方ですね。“Nothing about us, without us!”と言っているように、障害者が自立して地域で暮らすと言ったら、それに関して行政・国は万全の保障をしなければならないということを伴う権利条約です。

しかし、現実にそんなことはされていません。行政の窓口はこんな権利条約があることも知らないし、生活保護と障害者に対する施策が一緒に組み合わせで保障ができるということを知らない窓口もある。だから、窓口で闘うしかないことが多いです。そういうことも突破できるような権利条約なのです。

だからそういう意味では、やはり問われているのは運動なのだろうと思います。なお、これには雇用差別の禁止も含むということであって、これは恐らく人種差別撤廃条約の差別禁止条項と絡んでいるのでしょう。ですから、人種差別撤廃条約の中で日本政府が認めていない、差別禁止と個人通報制度を突破することは、このように障害者権利条約の中に生産的に有効に跳ね返っていくことだろうと思います。




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