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4月26日集会の報告

以下は、4月26日に当会が開いた集会酒井隆史 meets ヘイトスピーチに反対する会 ~何が運動を国民主義化するのか~」にかんする、当会の報告である。

酒井さんの講演は、1960年安保における国会周辺の抗議運動に光を当てることに、焦点を絞ったものだった。まず、酒井さんは自身の問題関心を説明するために、最近の大江健三郎の発言を例に挙げた。大江は昨今の反原発デモを、60年安保や70年安保における「学生活動家」の「ジグザグデモ」と比較して、後者が「普通の市民の参加を拒絶」しているのに対し、現在のデモは「およそ誰も指導しないし、指導されもしない」「民主主義のデモ」であると評価している。だがこのような見方は、運動史の恣意的な再構成でしかなく、街頭運動の潜在力をみずから狭めてしまうものだと、酒井さんは反論する。彼によれば、ジグザグデモの源流は、戦後の前衛的な学生運動ではなく、少なくとも戦前の大阪における労働運動まで遡りうるもので、それはむしろ祝祭性さえ有する、民衆による民衆のためのデモであったという。戦後においてもジグザグデモは、学生の占有物というわけではなく、1960年安保においても、労働者や市民の多くが自発的に採り入れた抗議形態であった。むしろ国会前のジグザグデモを非難したのは、先鋭化する運動から離反したデモ参加者ではなくて、運動の統制ができないことを苦々しく思っていた運動指導者や「議会政治を守れ」というスローガンを掲げたマスメディアであったと、酒井さんはつけ加える。彼によれば、とくに共産党は「整然とした」デモを乱す者が民主主義を壊しているとして、全学連やジグザグデモ参加者を執拗に攻撃した。だがむしろ、共産党がよしとするような運動の自主規制が浸透するにつれて、かえって警察による「街頭の自由」への統制が強まっていったという。こうしたなか、1960年の安保反対運動は、6月19日の改定安保条約の自然成立を境に沈静化していく。

現在の東京での官邸前デモや街頭抗議については、酒井さんは、事情を熟知していないのでむしろ会場から意見を聞きたいと断り、はっきりとした言明は避けた。とはいえ、近年の反原発などの街頭運動について注意深く観察している者にとっては、彼の実証的・歴史的考察が現状についてもつ意味を、読み取らずにはいられないだろう。1960年安保で共産党が代表していたような、「整然とした」デモを大衆的・民主的として持ち上げる自主規制的な眼差しが、まさに今日の街頭や官邸前デモには、深く浸透していないだろうか。そのようなムードを示す一例として、酒井さんがたとえば大江健三郎のデモ評価に批判的に言及しているのだと理解しても、本人の意図を歪めてはいないだろうと思われる。昨今の街頭運動にかんする(大江が表明したような)自己イメージが、自主規制による権力との妥協という限界について無感覚・無反省であり、だとすれば今日の運動も、この同じ限界から自由ではないのではないかという点では、酒井さんの言外のメッセージは明確であろう。

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その後の会場討論では、まず当会が、集会の副題にも掲げている「運動の国民主義化」について問題を提起した。官邸前デモだけでなく、昨年の大久保以来の「反レイシズム」カウンター行動も参照しつつ、いくつか気になる点を挙げた。改めてまとめると、以下の三点である。

第一に、社会運動における保守や右翼との連携が「懐の深さ」や大局的・建設的な運動姿勢として歓迎される(以前からの)傾向と、酒井さんが問題にしたような街頭運動と権力・規制との妥協という問題に、関連があるのかどうか。全体としては分かりやすい保守イデオロギーを前面に出すことはなく、しかし保守的、内向きなムードがますます運動に蔓延しているように見える。そうした意味での国民主義化は、街頭運動における規制への順応という現象とも、関連しているのではないか(現に、60年安保における共産党の基本路線は反米愛国だった)。

第二に、在特会などのレイシスト運動を攻撃するために差別的言辞が使われ、それに対する異論表明が(とくにウェブ上で)逆に非難の対象になる(レイシストとの闘いへの妨害などとして)という、一部の傾向について。これは、一見すると「上からの運動統制」とは逆の事態に見えるが、しかし実際には、運動内部の討論や批判を抑え込む、強い内向きな風潮を増幅しているように感じられる。これは、権力や規制への妥協とはやや質の異なる、草の根の運動において解決しなければならない問題ではないか。

第三に、運動における民主主義というスローガンの両義性について。60年安保では、民主主義の見かけをかなぐり捨てた強行採決へのデモ参加者の憤りが強くあったし、現在の反原発や反解釈改憲、あるいは反レイシズムにも、民主的価値の擁護や奪還への思いが少なからず含まれているように見えるが、その一方で、運動を限界づけ、制限するためにも、民主主義というスローガンは機能してきた。このことをどう考えるのか。民主主義に訴えかけるだけではなく、その内実を問いなおし、拡げるために、何が必要なのか。

しかしながら、酒井さんの視点、当会の問題提起、そして会場からのコメントが、あまりうまくかみ合わないまま、散漫なうちに集会は時間切れとなってしまったように感じる。これについては、なによりまず、当会の議事進行のやり方に問題があった。その点は反省し、今後の課題としたい。他方、欲を言えば、現状についても酒井さんから独自の分析やコメントを述べていただきたかった。たとえば運動の「国民主義化」という当会の提起した論点に対しては、「国民主義」という語の選択は別として、問題としていることがらのいくつかには大筋で賛成である旨、酒井さんは述べただけであった。また現状にかんする会場からのコメントについても、今日の運動の様相という観点からは、酒井さんはほとんど応答していなかったように記憶する。われわれの議事進行がうまくなかったせいでもあるが、誰の側に立つのかという立場表明ではなく、酒井さんの独自の情勢分析やコメントを、少しでもお聞かせいただければ、議論もより活発になっただろうと思う。

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最後に、集会後、当会の内部議論で出された見解を、いくつか挙げたい。

第一に、日常の差別と公的な差別・排外主義との関連について。この論点は、質疑応答における酒井さんのコメントを受けている。ある居酒屋での懇親の席で、彼の学生が悪ぶれもせず唐突にヘイト発言をおこない、どう対応すべきか困ったという例をあげ、日常レベルでの排外感情の蔓延に対する取り組みが必要ではないかと示唆した。それはもちろんそうなのだが、その取り組みとは具体的にどのように行われるのか。「ひとりひとりが注意す」というありきたりな精神論のほかに、具体的な指針はあるだろうか。また、日常レベルの取り組みと、社会運動とは、いかなる接点をもつだろうか。たしかに差別という現象は、日常関係、文化やイデオロギー、そして制度という、さまざまな分野にまたがっているのだが、そのどれかを他の分野を条件づける基礎として見るよりは、それぞれの分野においてなされるべき取り組みのかたちを区別したうえで、相互に関連づけていくような議論のやり方のほうが生産的ではないか。こうした意見が会内で出た。

第二に、いまの日本の運動状況を踏まえて、どのような議論と活動の方向を定めていくべきかについて。酒井さんが問題にした権力・規制への順応と、当会が問題にした国民主義化は、つぎの点において並行する現象であると、さしあたり言えるかもしれない。つまり、動員数や「整然とした」デモを至上目的とする一方で、運動内部における相互批判や自己検討を忌避し、差別の問題についても過激なレイシストの土壌である制度的・社会的な価値観を問題にしない風潮において。そうだとすれば、運動を内部から自己変革しようとする力が、圧倒的に弱いということが、克服すべき問題と言える。そのような力は、どのようにして育てていくことができ、また逆に何によって弱められていくのか、ということを問い返しながら、活動を展望し、推進していく必要があるだろう。当会はまだ、具体的な展望を見定めるには至っておらず、それは今後の課題である。ともあれ、そのような課題を強く意識するようになった点において、当会としては、酒井さんをお招きして集会をもった意義を、さしあたり確認することとしたい。


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