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【講演】部落解放運動の経験から見た人種差別撤廃条約(友常勉)前編


もくじ / 前編 / 後編


はじめに

冒頭で司会が言われたこと、それから本日の会の呼びかけに基本的に賛同し、講師を引き受けました。

人種差別撤廃条約をめぐっては、国内法と国際法の関係をどのように整理するか、国内国外の国連でのロビー活動など、様々な手続きが必要になると思います。そのあたりについては、議論の中でも出るかもしれませんし、経験者の方がいらしたら、その中で補うことができるのかもしれないと思います。

私が用意したのは、主に部落解放運動の経験の中で、人種差別撤廃条約という問題がどのように扱われてきて、どういう文脈の中で活用されてきたのかということと、そこから見た限りで、人種差別撤廃条約を具体的に実効的に実行あらしめることは、どういう責任・課題を伴うものなのかという話です。そういう意味では少し限定された角度からの話になります。


人種差別撤廃条約と部落解放運動

人種差別撤廃条約と部落解放運動・部落問題のかかわりが問題になるのは、一つは人種差別撤廃条約の第1条第1項で、人種、皮膚の色、それから「世系」descent、民族的出身、種族的出身等々の定義が出てきます。その中の「世系」、「世襲的」とも解釈されますが、そこが問題になるのが大きなかかわりの発端になります。

この人種差別撤廃条約の批准をすすめ、なおかつそれを日本における国内の部落差別や、部落差別を含む他の差別問題の中で生かすために、解放運動、部落解放同盟が中心になって、反差別国際運動IMADR(The International Movement Against All Forms of Discrimination and Racism)という組織が結成されています。最初にそういういきさつを説明しながら、論点を説明していきたいと思います。

IMADRの創設とその背景ですが、個別の差別問題を採り上げてやっていくときに、一つの差別問題を解決していくいろいろな法律があります。部落解放運動、部落問題・部落差別に関しては、同和対策事業、同和行政がありました。1965年に審議会が政府内で答申を出して、それに基づいて69年から79年まで、最初の「同和対策事業特別措置法」が出されます。これが82年まで延長しましたが、時限立法でしたので、最初の10年間のあとは細かく延長しながら、最終的には2002年で終結をします。

時限立法であるということは、法律がなくなると、それまで行われてきた被差別部落に対する様々な施策が打ち切られることを意味していましたから、解放運動の中では対案が必要になりました。対案として総合立法を計画していくわけです。それが「部落解放基本法」といわれるものでした。それが時限立法化しないような法的施策を構想したわけです。

この制定要求運動があって、これを国内的に進めつつ、国際的に世論を形成することが大きな動機だったのではないかと思いますが、そういう動機の中で1988年にIMADRが結成されていきます。当初の予定と狙い、その後の流れは違っていたかもしれません。国連のNGOとして登録を進める中で、主張は必ずしも部落差別に限らないで、世系全体、世系差別全体に広がるような差別の問題の解決に向けて取り組むNGOとして成長していったと思います。

こうして「世系に基づく差別」の承認を国際的に進めることと、国連でのロビー活動が展開されていきました。他にも様々な団体が、人種差別撤廃条約を批准し、批准させ、その実行をさせるための取り組みをしてきましたが、解放運動の場合はこのIMADRというNGOを通してそれをしてきました。

他方、そういう運動のもとで、国内的には部落問題・部落差別に特化して「部落解放基本法」の制定運動をしてきました。先ほど言いましたように、これは特別施策から特別立法を目指すような国内法の設置要求でした。細かい話は本に書いているのでここでは端折りますが、結果的には「部落解放基本法」を作るという運動は失敗していきます。

私の総括ですが、広汎な差別の禁止、権利保障、それから保障要求へとまとめきれずに国内世論の形成に失敗したのではないか。つまり、部落差別だけの解決を求める総合立法、特別立法を作るというリアリティを、世論形成に持っていくことは多分できなかったということが一つあると思います。


解放運動の中の差別

こういうことを言わなければいけないのは、実は、部落解放運動それ自体が、1950年代の戦後の出発点から、内部に人種差別を孕んでいたからです。同和対策事業、同和行政の発端において、ある意味で国籍条項がネックになって、被差別部落に対する様々な施策の中から、その居住地を同じくしていた在日韓国朝鮮人が排除されていくという問題がありました。解放運動はずっと、その排除の事実を総括しきれずにきたと思います。その点がもしも80年代に共有されていれば、「部落解放基本法」制定要求運動はまた違ったものなったのではないかと思います。

ある特定の差別に反対する運動は、それによって分割線を引いてしまいます。もう一つの差別を作り出すということが歴史的に実際に起きてしまうんですね。もちろんそれほどラディカルに起きたわけではなくて、居住地の中で被差別部落と在日朝鮮人の運動が共闘できなかったという記憶としては残っていますし、そこからの排除があったという記憶は在日朝鮮人の人々の中には残っていますが。実際にはその後1970年代になって、様々な運動の中でやはり朝鮮人の集住地域に対する施策も次第に進められていきました。その中では、被差別部落の青年たちとの共闘も進んでいったということは付け加えておきます。

ただ、いずれにしても、ある特定の差別、一つの個別の差別問題の解決を主張すること自体が、もう一つの差別の温存につながってしまうという歴史的な経験は確認しておきたいと思います。


部落解放基本法と個別闘争、大衆運動

それからもう一つ、部落解放基本法には、被差別部落に対する差別的な言辞・差別的な表現に対する法的な禁止・制約が盛り込まれていました。もちろん保障も盛り込まれていますが、それ以外に部落解放運動が様々な差別糾弾闘争として部落差別をなくしたり、あるいは被差別部落の人権を尊重したりということで培われてきた様々な歴史的な経験が、どれほどその基本法要求運動の中に反映されていたかということが、あまり意識されていなかったのではないかと思います。

もちろん作文をする際にはそういうことは意識されていましたが、基本法というように法制定をしてしまうと、ある意味で、運動団体の代表と法務省のやりとりの中に短絡的に結実していきます。ここではやや硬い言葉で「法的な抽象化」「官僚主義的な普遍化としておきますが、つまり法務官僚の作文にゆだねられて、実際の大衆運動としてそれをどこまで展開できるのかが問われることになったわけです。

実際に憲法に依拠してでも、被差別部落に対する差別はいけない、と。それから実力闘争、実力行使です。糾弾闘争は一見して私的制裁行為と見られますが、憲法の範囲の中で容認される自救行為であるという判決も出ていました。八鹿高校裁判は、学校現場で起きた差別事件に伴う、被差別部落と学校の教員たちとの間で発生した事件ですが、その中で糾弾権が問われた裁判でした。1988年3月に大阪高裁判決が出た時には、僕もその場にいました。そういう意味では、今ある実際の憲法や人権などの条項を通してマイノリティの権利を承認させる成果を引き出すことは十分可能だったし、成果はあった、ということです。しかし、そういう個別闘争の成果を反映できなかった。これはつまり、同時にどのように大衆運動と結びつけるのかということではなかったかと思います。

そういう経験があって、つまりIMADRを通じた国連での運動と国内での基本法制定要求運動、あるいは部落解放運動がうまくリンクできないまま、部落解放運動の中で人種差別撤廃条約という問題が残っていたと思います。それはつまり、部落解放運動・部落問題・部落差別と人種差別撤廃条約をどう結びつけるのかということが宿題として残った、ということだと思います。実はこのことが2001年ダーバン会議でも問われることになります。つまりこれは国際的な問題で、どの国でも発生する問題です。


「差別禁止」「個人通報制度」と日本政府

次に、人種差別撤廃条約の経過についてです。第1条第1項に盛り込まれていた「世系」という概念についてのやりとりは、非常に大きな問題を孕んでいます。人種差別撤廃委員会は、それぞれ締約国からの報告に基づいて、様々な一般勧告あるいは最終見解を出します。その中でその都度、国内におけるある差別についての定義を行い、それに対してその国が是正するように勧告を行います。

カースト差別は世系差別に該当するとインド政府に対して勧告しています。それが2000年のネパールでも勧告され、2001年バングラデシュでは、被差別部落・部落差別もそうであると勧告されています。つまり、カースト差別や部落差別も「人種差別」なのだ、国連、世界の常識においては人種差別として扱われるべきなのだ、ということです。

2002年、一般勧告の29ですが、さらにもう少し踏み込んだ定義がされます。これは前年南アフリカで行われたダーバン会議で持ち越された課題が残っていたからです。ですから、その課題に答えるためにこのような勧告が出されました。「世系に基づく差別がカースト及びそれに類似する地位の世襲制度等の集団の構成員に対する人権の平等な共有を妨げまたは害する社会階層化の形態に基づく差別を含む」。これは拡大解釈すると、様々な貧困が累積していった結果、ある特定の居住地に住む集団がマイノリティ化していく場合、これも人種差別に当たるという、それぐらいの解釈が可能な概念です。貧困が累積した結果、それが人種差別につながるということなんですね。

だから、特定の民族や出自、あるいは宗教、言語に基づくマイノリティという、19世紀的な起源をもつ人種主義という概念ではない人種主義が今、適用されているということです。そして、実際それに基づいて、世系差別という概念は大きく拡大されました。アフリカの様々なカーストに類似した社会集団、セネガル、マリ、ガーナ――イギリスは移民社会そのものがその中に南アジアのカースト差別を包括していましたからそうなりますし、韓国のペクチョン、モーリタニア、ナイジェリア、エチオピア等々、世系差別の概念・適用範囲を拡大していくという経過を持っていました。

先ほど触れました日本に対する最終見解ですが、これが重要なのは、アイヌ、部落民、韓国朝鮮人マイノリティ、沖縄のコミュニティ、難民まで含んでいることです。ですから、人種差別撤廃条約の実行を求める運動は、少なくともこの概念の中に出てくる様々な対象を外してはならない、ということになります。

それぞれについて全部を網羅できませんでしたが、人種差別撤廃委員会に対する日本政府の最終見解の特徴を挙げておきます。まず部落については、依然として「世系には該当しない」と政府は言っています。つまり、人種差別撤廃条約の対象ではない、ということです。

次にアイヌですが、1990年の段階では、先住民の国際的定義が不在であるということで、アイヌについての言及は避けていました。しかしその後、国連の「先住民の十年」の取り組みの中で「旧土人保護法」の廃止と「アイヌ文化振興法」の設置に基づいて、日本政府は画期的な転換を遂げます。それが2008年で、アイヌ民族を先住民として認めるということが出されました。2010年の委員会ではそのことが評価されました。

さらに沖縄については、この2011, 12年、国連が一番注視しているところではないかと思います。委員会からの情報提供要請に対する外務省の一番新しい回答では、「沖縄県居住者、出身者は人種差別の対象とならない」と日本政府は言っています。そして沖縄に基地が集中していることに対して、現在日本政府は「負担軽減に取り組んでいる」と言っています。これは1990年代から変わっていません。つまり、沖縄に対する態度は一貫してこのような態度だということです。

在日韓国朝鮮人に関しては、この場合他の様々な生活レベルでの差別もありますが、朝鮮学校の卒業生の大学受験において大検を必須としていたのを、2003年に大学の個別審査にゆだねるということに変わってきました。

そういう意味では、人種差別撤廃条約を批准した締約国としての日本は、依然としてこの人種差別撤廃条約の主旨、第1条第1項をきちんと認めているわけではないということ、ただし前進がないわけではないということも言えます。

それから人種差別撤廃条約には、第4条のa項とb項に差別の禁止という条項があります。もう一つは個人通報制度というのがあります。この二つは非常に問題になると思いますが、これに対して日本政府は、「第一に差別禁止に関しては憲法と抵触しているからまずその履行に関しては留保すると言い、さらに「右留保を撤回し、人種差別思想の流布等に対し正当な言論までも不当に委縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の扇動が行われている状況にあるとは考えていないと2001年の最終見解で述べました。これは基本的には撤回していません。ただ、このように日本政府が言辞を書いたことは非常に重要で、逆に言うと、これを根拠にして差別禁止に関する議論を進めることはできるかもしれません。

それから個人通報制度です。締約国は、それぞれその国の制度に準じてですが、人種差別撤廃条約上の人種差別に該当するような特定の差別事例があった場合は、国連の委員会に通報が認められています。しかし、それに関しても日本政府は認めていません。理由は、一つは司法権の独立の侵害であるということです。もう一つは、一応三審制度を採っているし、法務省人権擁護委員会制度もあるということで、国内の救済手続きの体系がある、それを混乱させる恐れもないわけではない、というようなことを言って、言い逃れをしています。その後、その時々の見解の中では、人権擁護法案を出しているとか、あるいは法務省の人権擁護制度などを盾にしてその必要はないとも言ったりしています。民主党政権期の2010年の4月には、外務省の中に人権条約履行室が立ち上げられていました。しかし現在は機能していないと考えられています。

このような経過が人種差別撤廃条約をめぐる政府見解の一連の流れです。


「人種主義」概念の拡大

今述べてきた人種差別撤廃条約が、もう一度国連レベル、世界レベルで焦点化したのがダーバン会議です。2001年8月28日から9月8日まで南アフリカ・ダーバンで開催されて、各国の多くのマイノリティのNGOが代表団を派遣しました。日本からも、部落解放同盟を含めて、女性団体も先住民の団体も参加しています。南アジアのダリトの団体も大きな代表団を派遣しています。そこで問題になったのは、国際社会の中で人種差別撤廃条約がどのような争点を持っているかということでした。

宣言や行動計画はホームページから見ることができるので、レジュメには詳しくは書いていません。開かれた場所が南アフリカでしたから、宣言では、人種主義と植民地主義の深い関係、そもそも人種主義は植民地主義から生まれたということがはっきりと述べられることで、アフリカの様々な人たちの犠牲と被害の歴史が明記されます。それから行動計画の中でも、行政措置の実施要求は各国に対して勧告されるという宣言文が採択されていました。

ですが、実は会議は大きな争点を孕んでいました。二つ挙げておきます。もっとたくさんあるのかもしれませんが、私としては二つにしておきました。一点目は占領の問題と占領(occupation)がもたらす人種主義ということ、二点目はカースト差別をどのように人種主義として承認し、それに対する取り組みを進めるかということ、この二点だったと思います。占領について一番焦点化していたのはイスラエルによるパレスチナの占領です。その中のNGOのスローガンにならえば、「シオニズムこそがアパルトヘイトである」ということでした。

ところが、この議論が議題になった2001年9月4日の会議では、アメリカ政府代表団が会場から退場します。歴史的な事件だったわけですね。それに対してアメリカのNGOは全員沈黙してしまうということが起きた。バーバラ・アーウィーというアメリカからの参加者の言葉を借りれば、「これが、アメリカが最初にやった態度表明だった」ということなんですね。問題なのはアメリカそのものが持っている利害体質、国家利害こそが、世界の人種主義の主たるリソースだということです。だから、人種差別に反対するということをある意味で越えていくこの問題を、どうすれば問題化できるのかが問われると思います。

もう一つは、南アジアのダリト差別、カースト差別です。これが日本の部落差別の世系の問題とかかわっています。インド政府は一貫して、ダリト問題は国内問題であり人種差別ではない、という立場を採っています。もちろんインド憲法はダリト差別を禁止しています。その後、何度か厳しい立法措置を取って差別を禁止する方向で進めていますし、厳罰化の方向に進んでいると言えます。ただし、国際社会においてこれを人種主義として俎上に載せることに関しては、一貫して拒否し続けています。ですから、国際世論を以てダリト差別に対して何らかの措置を講じるようにインド政府に求めることが求められていて、インドのダリトのNGOたちもそれをしてきました。

つまり世系の問題は、同時にこれを進めるということは、人種差別撤廃条約の水準からいうと、インドのカースト差別にどのように取り組んでいくかということと深くかかわる、ということです。そういう意味で、先ほどちょっと紹介したように、ほかの南アジア各国が持っている世系の差別がその中に孕まれることになります。だから、世系差別というのはある意味でパンドラの箱です。先ほども言いましたように、これは、累積されていく貧困が作り出す差別が、人種主義的な差別になるという意味合いを含んでいますから、そういう意味でもパンドラの箱なんですね。人種主義という概念の拡大が可能になっています。

さらに、ヘイトスピーチに関しても2013年9月9日に一番新しい一般勧告35が出て、combating against hate-speechという記事が入ったかと思います。ヘイトスピーチそのものの定義はあいまいではありますが、第4条の規定対象とされています。そして第5条の権利保障が適用されるべきだ、と委員会は発表しています。これも議論の中では参照されるべきだろうと思います。



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