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素人の日本国民運動? 6.11デモ公開質問状への補足


(以下は、「6.11新宿・原発やめろデモ」に抗議した有志〔公開質問状を参照〕のうち、柏崎からの見解です。かれは抗議のなりゆき〔前記事参照〕で出発前集会で発言しましたが、その発言したこと自体が、集会の「左右の両論併置」を演出することに貢献してはいないかと危惧しています。そのような理由から、以下にかれの個人的見解を発表します。)


いまわたしは考えなおしています。先の質問状で、針谷の起用だけを問題化したことは、正しかったのだろうかと。かれのような侵略主義者が登壇しようがしまいが、あのデモ前集会それ全体が、そういうものとして用意されていたのではないかと。4月の高円寺で出発前集会に一水会の鈴木邦男が起用されていたこと(ウェブ公開はされておらず当会もあとで知った)や、5月の渋谷で歴史修正主義者の宮台真司が起用されていたこと(これはウェブで事前公開)についても、事後的にであれもっと早く抗議をしておくべきでした。このままでは「素人の」反原発運動は、日本国民主義的なキャンペーン運動に陥ってしまうでしょう(すでに部分的にはそうであったと感じます)。

ところで、デモ運営に必要なさまざまな役割をうけもっているなかには、わたしの友人が多くいます(わたしも4月や5月には当日運営を手伝いました)。その友人たちが、渋谷での警察の不当弾圧やそれにかんする世間の悪評判に抗して、被逮捕者を不起訴で取り戻すために奔走したことにも、わたしは敬意をもっています。また、今回の事態について、友人たちがとまどい、内部で意見を発していることについても、わたしは耳にしています。だからわたしは、先の質問状やこの声明を、そうした友人たちの運営内での率直な意見交換に益するものと考えています。反原発をより多様性のある豊かなものとして発展させていくための、建設的な提言と考えています。この提言が議論の呼び水になることを期待します。


1 差別構造を問わずに原発は止められない

原発問題が労働問題、地方差別や植民地主義の問題のうえに作り出されています。したがって、侵略主義や植民地支配を肯定する人物にわざわざ発言させることは、反原発と根本的に矛盾します(それこそ右翼も左翼も関係なく)。そもそも、一連の反原発運動にはアジア系の人々をふくむ少なくない在日外国人の人々も参加しています。おそらく、6.11の新宿にも参加していたでしょうし、わたしの友人の外国人も何人も参加していました。そういう人びとも含む集いに、かつて自分たちを侵略した「八紘一宇」を掲げる団体の代表が発言するということの意味を、「右翼が反原発運動で発言してもいいのでは」と主張する人々はどう考えるのでしょうか。そこには「黒い髪に黄色い肌をしているのはみんな日本人」だと思っているか、見分けがつかないから配慮しなくていい、という無意識の差別と排除の論理があるのではないでしょうか。

とはいえ針谷起用の問題については、先の質問状でも指摘しました。ここでは、かりに侵略主義の立場からでないとしても「日本国民」に反原発を象徴させようとすることが、どういう意味で問題なのかについて、もうすこし補足しましょう。

たしかに原発問題の責任者は、東電ほか電力会社、原発推進企業、日本政府、経産省ほか関係当局です。しかし、いま放射の危険にさらされているのは「日本国民」だけではありません。それどころか、「日本国民」が東電や政府に「だまされていた」などという物言いは、今回のメルトダウン以前から日本で作られた放射能の危険にさらされてきた人びと存在を無視するものです。これまで「怖い」「危ない」「ヤバい」原発ではたらいてきた人たちや、その原発の近隣に暮らしてきた人たちは、どのように「だまされた」のでしょうか。ほかの人たちと同じように「だまされていた」のでしょうか。

下請けで原発施設に雇われる人たちは、放射能の人体にたいする危険性について説明されません。「ほかよりは高い賃金出すからいいだろう」と、下層労働者はカネで黙らされるわけです。ひどいときには、現場が原発だとすら説明されずに連れてこられることもあります。

そもそも放射能を生み出す施設が近所に建てられると聞いて、誰が安心できるでしょうか。原発が建てられるのはいつも農村や漁村であり、そしていつも反対の声があがります。しかしそのほとんどは切り崩されます。政府は自治体の長を振興策で丸め込み、村の家々には電力会社の社員が昼も夜もおしかけ、買収によって地元の人間関係に亀裂をつくることで、現地の人々をつかれさせ、反対の意志をくじく。(もちろん他方で、祝島のようないまも続いている反対運動もありますが。)そうやって原発が建てられたあとには、振興策によって建った不必要に大きな公共施設以外には、なにものこりません。土地を売った金もやがてなくなり、ほかに仕事を探さざるをえなくなります。それどころか、地域経済そのものが原発中心につくりかえられてしまうせいで、原発ではたらくしかなくなる人も大勢出ます。こうして、事故がおきようがおきまいが、原発周辺に暮らす人びとは放射能の危険を強制されます。

放射性廃棄物もまた地方に廃棄されます。やはり反対運動の切り崩しをつうじて、廃棄施設が強制されるのです。また最近では「リサイクル経済」の名のもとに、放射性廃棄物の「輸出」も進められています。経済協定などとひきかえに、アジアの近隣国に放射能ごみを押しつけようとしているのです。そもそも原発以前にも、日本は他国に放射能ごみを(この場合は放射能ごみであること自体を隠しながら)不法投棄しているのですが(マレーシア・ブメキラ村での日系企業の放射性廃棄物による汚染は有名です)。

こうして、原発事故が起こる以前から、一定の人びとだけが選択的に、日本で生み出された放射能の危険にさらされつづけてきました。この被爆の不平等はなぜ生じたのでしょうか。富める者や中間層の下層労働者への差別、都市の地方への差別、日本人のアジア諸人民への差別、こうした差別がもともとあったからではないでしょうか。

さて、東京のような都市部に住む人びとが、どう「だまされていた」のかを考えてみましょう。しかし実際には、原発事故が起きる可能性などについて、割り引いて説明されていただけです。原子力がつまり核であることも、それがどういう場所にあってどういう場所にないのかも、わたしは知らなかったわけではない。ただいままでは、それをつきつめて考えずにいただけなのです。そのかぎりで、首都圏に住むわたしは放射能の被害者であると同時に、東電や政府にたいする一定の「共犯性」をもってはいないでしょうか(もちろん都市部のなかでも、放っておけば放射能被害は経済格差にそって不平等にいきわたるでしょうが)。そして「東電と政府にだまされた日本国民」という表象は、こうした矛盾をおおいかくして、見ないことにするだけではないでしょうか。

こう言ったからといって、わたしはなにも、今回のメルトダウンを期に、放射能への恐怖から、反原発の声をあげることを否定しているわけではありません。3.11以前には原発問題についてなにかをしていたわけではなかったのは、わたしだって同じです。ただたんに、「原発はいらない」というわたしやあなたの認識を、3.11以前から放射能の危険にさらされてきた人びととも共有できるようなものへと、発展させていこうと呼びかけているだけなのです。原発問題の根底にある差別構造を拒否することは、都市生活者が東電や政府との共犯性を拒否することとなり、したがって東電や政府をますます追い詰めるための一歩にもなりうるはずです。


2 立場の問題

国民運動なんて言いがかりだと言われるかもしれません。6.11デモを運営した人たちは、「原発反対」という思いをもつすべての人に場所を与えただけなのだと。しかしそうでしょうか。少なくとも出発前集会は、運営側のアレンジメントによって、つまり誰を壇上で優先的に発言させるかを運営側が選択した結果として、あのように国民主義的ムードが前面に出たものとなったのでした(ほかの要素もあったにせよ)。また興味深くも、松本哉は、新宿駅前でのデモ後集会の最後に「総力戦で」原発を止めようという呼びかけをしていました(youtube動画、4:00前後)。

「原発反対の一点だけで集まる」。これはもっとも低い一致点に見えます。誰にでも開かれた態度のように見えます。しかしながら、(デモに参加する個々人が)放射能への恐怖から反原発を決意することと、(デモ主催者が)「原発反対という一致点だけ」に執着しつづけることとは、まるでちがう問題ではないでしょうか

放射能にたいする純然たる「恐怖」、それ自体は「立場」というよりも、受動的な反応です。ただしもちろん、じっさいのデモ参加者たちが受動的だったと言いたいわけではありません。怖い「から」デモに参加するとしても、この「から」には飛躍があって、そこには行動への意志や決断といった能動的なものがあります。そして「から」のまえにくる理由の部分は、議論をへて、あとからでも豊かにしていくことができます。ひとは問いながら進むことができます。実際、11日に新宿に参加したどのひとも、たんなる恐怖のとりことしてではなく、それぞれにさまざまな思いを抱いて集まったにちがいありません。福島や東北出身の方も少なからずいらっしゃったでしょう。そこにはさまざまな立場があったはず

ところが、過去3回おこなわれた「原発やめろデモ」や各種関連イベントの呼びかけ文においては、時間をおうごとに、「ヤバい」「危険」「恐ろしい」という言葉しか出てこなくなっていきます。これは、主催がデモ参加者の(さまざまな)立場性を、たんなる受動的な反応へと意識的に制限しているようにしか見えません。ならばそれは、反原発をめぐる立場のちがいを認めようとするというよりも、反原発をめぐる立場の衝突を回避し、無視する姿勢でしかありません。このような姿勢こそ、反原発をめぐる議論を封じ、ひいては反原発運動そのものにかせをはめるものではないでしょうか。

いま「ヤバい」「恐ろしい」は立場ではないと言いましたが、しかしながらこうした態度に固執することは、それはそれでひとつの立場です。わたしが直接に話した運営関係者たちはだれも、「反原発ということで、あとはそれぞれがやりたいようにやっているだけ」と口をそろえて主張していました(少なくとも、先方から出演を依頼された「素人の乱ネットラジオ」6月12日では公然化されたやりとりです)。しかしそれは、たんに問いかけをうけた者が自分の立場を「立場のなさ」に見せかけようとするふるまいにしか見えませんでした。

それは、どこにあるのかわからない「ふつうの人の観点」のなかに、自分がすでに置かれている立場を隠ぺいするふるまいです。だれでもないのっぺらぼうの「だれか」への、放射能の恐怖にかられている以外にはいかなる人間的特徴ももたない「だれか」への同一化です。つまりそれは、自分で自分の立場性を裏切ることです。しかもそのような立場は、原発労働者、原発近隣の農村・漁村民、日本の放射能ごみに汚染される国外の人びとのような、3.11以前から放射能にさらされてきた人たちのこうむってきた不平等を覆い隠してしまいます。したがって、「原発ヤバい」「恐ろしい」だけを結集点とする6.11の新宿デモが、たとえ主観的には国民主義を意図していなかったとしても、実際には、政府やメディアが扇動する「がんばろう日本」式の日本人中心ムードとみごとに親和的であったことは、偶然ではないでしょう。

わたしは、いまの「原発やめろデモ」が「素人の日本国民運動」になりはしまいかと、真剣に危惧しています。侵略主義者の登壇を取り下げたこと自体は妥当でしょう。しかし、なぜ針谷の登壇が土壇場になって発表され、また撤回されたのでしょうか。外部での騒ぎもあったにせよ、内部での議論もわきおこったことでしょう。ではなぜ、そのような内部でもあとから問題視されるような決定が、一度は公式に発表されたのでしょうか。そもそもの問題として、運営内部の意思決定にかんする実質的な不平等があるのではないかと推測せざるをえません。

わたしが最終的に言いたいのはただひとつ。いま反原発に問われているのは立場だということです。これはもちろんわたし自身にも返ってくることばです。「原発やめろデモ」の運営側でも、そうした議論が活発化することを望みます。また、先の公開質問状の2への回答も待っています。


ヘイトスピーチに反対する会 柏崎 正憲



追記: 「主張はわかるけどやりかたが理解できない」というご意見もいただきました。でも、(素人の乱界隈は)みんな大好き(そう)な「シアトル以降」の反グロ・アナキスト、デヴィッド・グレーバーも、こういうカウンターアクションの事例を紹介してますよ。ある行動を組むとき、それに乗れなかったら抜ける自由も、また乗れないどころかそんな行動やらないべきだと思ったら、たとえ仲間であれその行動をブロックする自由も確保されている、という事例(「新しいアナーキストたち」『現代思想』2004年5月号をどうぞ)。





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