「戦後70年首相談話」として発表されるべき内容を、当会では独自に作成しました。
これを公開するとともに、首相官邸および諸政党にたいして、当会案を「談話」として採用するよう、働きかけています。
また、当会主催の
戦後70年首相談話の「独自案」をめぐる討論会 (8月14日) で、以下の談話案をめぐって議論をおこないます。ふるってご参加ください。
(9.19
集会報告の発表とあわせて一部訂正)
【「談話案」ここから】
日本国内閣総理大臣談話案 「戦後70年 歴史修正主義に抗して」作成: ヘイトスピーチに反対する会 2015年7月28日
皆さん
今年は、先の大戦であるアジア・太平洋戦争が終結してから70年になります。
1995年、当時の村山首相は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する談話を発表しました。この談話で日本は自らが行なった植民地支配と侵略に対して「痛切な反省」と「お詫びの気もち」を表明し、すべての犠牲者に「深い哀悼の念」を捧げました。いま、70年の節目の年を迎え、私は日本国総理大臣として、日本を代表して、日本の植民地支配と侵略の被害者とりわけアジア諸人民にたいし、再び痛切な反省にもとづくお詫びの気もちを表すとともに、これからいくつかのことを申し述べたいと思います。
さて、私は日本を代表して、と申しました。このことについては補足が必要です。昨今、日本においても過去の侵略戦争の事実を認めない歴史修正主義が台頭し勢力を増しています。そのため、日本を代表して私がこれから述べようとすることは、残念ながら日本国民の集合意志を代表して、ということではありません。しかしだからこそ、私は日本を代表して、すなわち、日本国の「国家意志」を代表して、述べなければならないと決意したのです。
それではここで言わんとする日本国の「国家意志」とは何か。日本国は大日本帝国が引き起こした侵略戦争とその敗北の結果として誕生した国家です。この事実を覆すことはできません。その政治的起源は、日本という国家に深く刻みつけられています。従っておよそ日本と呼ばれる国家が存在し続ける限り、あの侵略戦争の記憶と責任を継承し、後世に伝えることは、日本国の「国家意志」なのです。
私は、日本を代表して、という言葉を、このような意味で用いたいと思います。
日本の近代国家形成の歴史は、その始まりから侵略と収奪によって特徴づけられています。明治以降、台湾に出兵し、琉球王国を併合し、朝鮮へは軍事的干渉、北海道へは入植とアイヌの同化を進めました。そして日清戦争からアジア太平洋戦争敗戦に至るまでの半世紀の間、脱亜入欧の膨張主義を国の指導者だけでなく多くの国民も歓迎し、強欲とアジア蔑視に駆動された侵略の道を突き進みました。
朝鮮全土で三一独立運動が起こった時も、台湾の霧社で抗日蜂起が起こった時にも、日本の警察と軍隊は凄惨な虐殺と拷問でこれに応じました。関東大震災の混乱に乗じた朝鮮人への虐殺は、警察や軍が当初から朝鮮人を「不逞の輩」と名指し、メディアが流言飛語を増幅するなか、市井の人々も加わり、官民一体で行われました。こうして、大日本帝国の膨張に抵抗する人々の命と生活を次々と奪った日本国家は、治安維持法などの立法を経て、あらゆる自由と権利を抑圧した国家総動員体制を確立しました。そして植民地や戦地からは、労働力や「慰安婦」を強制連行で「調達」し、アジアへのいっそう大規模な侵略にのり出していったのです。
この夥しい犠牲と踏みにじられた人間の尊厳を思うとき、当時の指導者たちが膨張主義を志向しない国づくりを追求しなかったこと、国内外であげられた抵抗の声に耳を傾けなかったことに、深い痛惜の念を覚えずにはいられません。
さらに日本が立ち返るべき時間があります。敗戦への直面を避けるためだけに費やした時間です。米英中政府代表が「カイロ宣言」を公表したのちも、日本政府は2年近くにわたって戦争終結を決断しませんでした。天皇位にあった裕仁の地位と生命の保証に確信が得られなかったためです。その引き換えに大陸および太平洋諸地域で日本軍の活動がもたらした人命の損失、生活基盤の破壊の巨大さを直視しなければなりません。
また、「ポツダム宣言」の受諾を公表した1945年8月14日以降にも立ち返らなければなりません。日本政府はドイツ、イタリア両政府と共にファシズム枢軸を形成し、自らの帝国主義的な野望を突き進みました。敗戦は、この野望が何より帝国主義とファシズムに抗する人々の力によって挫かれたことを意味します。
ところが日本はその意味を認めてきませんでした。朝鮮半島における日本人の生命と財産を守るために、日本政府が半島南部を米軍政下に引き渡す手助けをしたことはその表れです。朝鮮の人々が作り上げようとした朝鮮人民共和国を破産させ、その後の分断の契機を作り出した責任の一端は、米国への敗北としてしか敗戦を受け入れなかった日本にあるのです。
続く1946年に新たな日本国憲法が公布され、日本は新憲法のもと「戦後」を歩んできたと言われます。しかし、その歩みは日本が受諾した「ポツダム宣言」に立脚したとは言いがたいものでありました。
憲法は「基本的人権の尊重」を政府に課しています。しかしどうでしょうか。帝国主義的膨張政策の誤りを認めるならば本来戦勝国民・解放国民として遇するべき朝鮮人を、日本は外国人登録令により管理・弾圧しました。こうした在日朝鮮人への人権抑圧体制を今なお日本は続けています。「人権」は「国民」の特権として理解されており、人々が普遍的に認め合うべき権利として理解されていないのです。
また憲法は「平和主義」を政府に課しています。しかしどうでしょうか。日本ははやくも1950年には朝鮮戦争での米軍の作戦行動に海保を参加させています。また、一度は米国に軍用地として割譲した沖縄は、今でも米軍の前線であり続けています。1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本は独立を回復しましたが,日本は当時の冷戦構造を口実に全面講和を積極的に希求することもなく,この部分的な講和に日米安全保障条約を加え「戦後レジーム」の基礎としました。この固い岩盤の上に、戦力不保持の憲法を有しながら軍備を再開し、日本は再び周辺諸国民の脅威となり得る軍事力を持つに至ったのです。
アジア諸国への戦時賠償については、戦時加害の真相究明や事実認定といった、本来あるべき被害回復の手続きを踏まずにやり過ごしてきました。日本は、賠償の問題を二国間の、とりわけ政府間の援助の問題へとすり替えてきたのです。その象徴的な現れが韓国に対して「日韓条約によって賠償問題は解決済み」としてきた歴代政権の姿勢です。その結果、日本軍による組織的な「慰安所」経営により、性奴隷として強制連行された方々の抗議の声を黙殺し続けているのです。さらに朝鮮民主主義人民共和国との間には、賠償はおろか国交を開くこともせず、敵視と挑発を繰り返してきました。
いま日本では、戦前の国家体制を美化し、現体制を戦前のそれに近づけようとする意見と、戦後の「平和主義」を守ろうという意見とが、ぶつかっていると言われています。ところが、以上のように近代日本史を振り返ってみると、戦前は言うまでもなく、戦後体制にも、多分に美化や虚飾が施されていることに気づきます。
そうしたごまかしは、今からでもやめるべきです。具体的には、戦争・植民地支配の被害者への個人補償を行うこと、在日外国人を権利の主体として認めること、自衛隊を合憲とする憲法解釈を見直すこと、そして日本帝国主義に責任のある天皇制を廃止すること。こうした政策や改革に向けて日本は歩みだすべきだという決意の表明をもって、結びといたします。
【「談話案」ここまで】