東京都の朝鮮学校への補助金停止に抗議します
いわゆる「高校無償化」(公立高校以外には高校就学援助、2010年4月施行)から政府が朝鮮学校だけを排除していることに連動して、東京都もまた2010年度から、朝鮮学校にたいする「私立外国人学校教育運営費補助金」の支給を停止してきました。それが今年までずるずると続きましたが、11月1日、猪瀬都知事は定例記者会見で、朝鮮学校に補助金を出さない(予算にも計上しない)ことを決定したと発表しました。
この決定に、私たちは強く抗議します。それは、日本において朝鮮人の民族教育が作り出され、維持されてきた歴史的経緯を、完全に無視しています。またしたがって、朝鮮にたいする日本の侵略と抑圧の歴史や、また戦後も在日朝鮮人にたいする抑圧や差別が続いているという事実も、この決定においてはまったく顧みられていません──顧みないどころか、また一つ、在日朝鮮人差別の事例が東京都により作り出されたのです。
***
この不支給決定の根拠として、東京都生活文化局は「朝鮮学校調査報告書」(以下、報告書)を公開しています。これを知事は、朝鮮学校への補助金支給停止を「実証的に根拠づける」ものとして誇っています。
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/shigaku/chosen/honbun.pdf
やや長い報告書ですが、不支給の根拠として説明されていることは、結局のところ以下の二点につきます(30-31頁)。
1. 朝鮮学校が「朝鮮総連と密接な関係にあり、教育内容や学校運営について、強い影響を受ける状況にある」こと。
2. 朝鮮学校が「準学校法人として不適正な財産の管理・運用を行っている」こと。具体的には、学校施設の一部を朝鮮総連やその関係団体に利用させていることや、「朝鮮総連関係企業の負債のために担保提供」されている施設があること。
まず第二の理由にかんして、報告書は、朝鮮学校の運営において、都の「準学校法人設立認可基準」に 「抵触」している点を、いくつか挙げています(25, 27, 29頁)。この「準学校法人設立認可基準」(http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/shigaku/senkaku/index.htm)には、都が私立学校として認可しうる(したがって助成の対象としうる)教育機関の条件が定められているようです。そうなると、この「基準」への「抵触」とは、相手が朝鮮総連であるかどうかに関係なく、朝鮮学校と外部団体との関わりにおいて、法律上の形式的な問題が生じている、ということを意味するにすぎません。だとすれば、この「基準」に抵触する問題さえ是正すれば、補助金を停止する理由はなくなるということになりますし、この「基準」に抵触しないかたちでの外部団体との関係には、とやかく言われる筋合いはないということになります。
実際にはどうでしょうか。先にも書いたとおり、2010年に政府が朝鮮学校だけを「高校無償化」の適用から除外したことに歩調を合わせて、東京都も同年から朝鮮学校への補助金支給を留保しています。これは結論先にありきの留保で、法的・合理的な根拠などまったく示されていませんでした。当時の石原都知事は「さまざまな疑義がある」「議会に議論してもらいたい」と言うだけで、留保の理由を説明する責任をまったくとらず、朝鮮学校への補助金支給を止めたのですから。通常なら「準学校法人基準にかかわる問題が発覚した→その是正を勧告したにもかかわらず改善されない→補助金停止」という手続きが正当であるはずが、実際には「補助金停止→準学校法人基準に抵触する問題点を探し出した」という流れになっています。そして、このたび出された報告書では、朝鮮総連からの「強い影響」が問題とされているわけです。この「強い影響」が、財産関係上の形式的な問題のみならず、朝鮮学校の教育内容をも指していることは、言うまでもありません。
法的基準は二次的な問題でしかなく、補助金停止の主要な理由は別のところにあることは、火を見るより明らかです。
***
したがって、都が朝鮮学校への補助金を停止する理由は、つきつめれば、朝鮮学校と朝鮮総連の「密接な関係」ただ一つとなります。
これにたいして、在日朝鮮人の民族教育の歴史を少しでも知っている者なら、まず次のような疑問が当然湧いてくるはずです。「なぜ朝鮮学校と朝鮮総連の関係が、最近「発覚」した事実であるかのように取り沙汰されねばならないのか」と。戦後、在日朝鮮人の民族教育が全国的に組織化されていったのは、総連の前身団体である朝連(在日本朝鮮人連盟)の運動をつうじてでした。その意味で、在日朝鮮人の民族教育の成立は、在日朝鮮人の政治運動・民族独立運動の成立と不可分であると言えます。政治的志向として、朝連‐総連は朝鮮人による自主独立の国家建設を支持し、国家体制として朝鮮民主主義人民共和国を支持しました。それと並行して、朝鮮学校が朝鮮人の自主性を基本的価値として教育に反映し、また民族的自主性を最重要視する朝鮮国家を理想として掲げています。くわえて、朝鮮は1957年から在日朝鮮人の民族教育に援助金を送っています。こうしたすべてが、朝鮮学校の歴史と切っても切り離せない事実です。
さて、つぎの問題は、そのような歴史的背景をもつ総連と朝鮮学校との関係に、なぜ日本の行政機関が介入しうるのか、ということです。日本に在留しているのだから日本人が口を出すのは当たり前、と言われることがありますが、そもそも在日朝鮮人という存在は、日本国家の一方的な侵略の結果として作り出されたものです。1910年からの(実質的には1905年からの)植民地支配は、朝鮮半島の土地の大部分を現地人の手から奪って日本人の所有地へと転化した(土地調査事業)結果として、土地を追われた朝鮮民衆の一部が、仕事を求めて日本列島に渡ってくるようになりました(強制徴用・強制労働も多くありました)。日本の膨張・侵略に並行して、朝鮮民衆は独立の生活基盤や自主的な近代化の機会のみならず、自分の言語や名前すら日本に否定されるようになりました。今日までに朝鮮学校が守り伝えようとしてきたもの、つまり朝鮮の言語や文化、歴史、民族としての自主独立の理念は、すべて日本が植民地期に否定し抑圧してきたものなのです。総連と朝鮮学校との関係が、日本の支配体制からの自己解放を在日朝鮮人が試みる過程で作られたものであるのにたいして、この関係に介入しようという日本の行政機関の態度は、日本がいまだ宗主国としての意識をもっていることの表れと言えます。
「不幸な過去」などとして天皇や日本の政治家が朝鮮半島の植民地支配を「反省」するコメントを発したことが何度かありました。しかし、ほんとうに植民地支配を反省するのであれば、植民地期に日本人が朝鮮人にたいして否定してきたすべてのことを日本国内においても認め、法的に保障すべきでしょう。ところが実際には、戦後初期の民族教育弾圧にはじまり、1960年代の外国人学校法案(成立せず)、私学助成からの排除、大学受験資格における朝鮮高校卒業者の差別など、在日朝鮮人の自主的な民族教育を否定し、抑圧し、差別する姿勢において、戦後日本は一貫していました。地方自治体の補助金(1970年代から)や大学入学資格(国立大学ではようやく2003年から)などの成果は、比較的少ないとはいえ日本人の支援もあったものの、基本的には日本人の自発的な反省からではなく、在日朝鮮人の権利獲得運動の結果です。
***
とはいえ、朝鮮学校と総連との関係を口実にする人たちは、おそらく日本の戦後責任の観点から在日朝鮮人の民族教育を考えることを避けたいのでしょう。東京都の報告書では、総連が「破壊活動防止法に基づく調査対象団体 」であることが指摘され(5頁)、また朝鮮民主主義人民共和国の指導者を「礼賛」していることや、その「肖像画」を掲げていることがクローズアップされています(30頁等)。とはいえ、こうした点がなぜ補助金カットの決定を正当化するのかについては、猪瀬知事は「都民の理解が得られない」という、まったくもって非実証的な理由しか挙げていません。とにかく、昨今の「北朝鮮」バッシングの風潮を増幅するかたちで、総連や朝鮮国家との関係を強調することにより、朝鮮学校が異常なものであるかのように見せようとしているのでしょう。
まず「破防法に基づく調査対象」という点については、公安調査庁という政治的な意図をもった国家諜報機関(特定の政治団体のみならず社会運動や人権・言論団体一般を常時監視している)が目をつけている、ということを意味するに過ぎず、言われている「破壊活動」は根拠不明なものです。
また指導者の「礼賛」についても、なぜそれが朝鮮学校の場合にのみ、あたかも異常なことのように切り取られるのでしょうか。国の指導者、とくに建国期の指導者・功労者を「礼賛」することは、どの国でも一般的なことです。米国のワシントン記念塔、現国王の肖像が刷られたタイの紙幣、トルコの公共施設や学校のそこかしこに飾られているケマル・アタチュルクの肖像画や彫像、等々、事例の枚挙には暇がありません。日本でも、近代化または「文明開化」の唱導者が最高紙幣にデザインされています──この人物は忌むべきアジア侵略の唱導者でもあったのですが。
朝鮮民主主義人民共和国が日本人を拉致したことは事実であり、そのことに朝鮮国家の体制や指導者もまた責任があると言えるでしょう。ところで、日本はその何十万倍にも及ぶ朝鮮人の男女を、大日本帝国の「富国強兵」のために動員してきました(そのなかには文字通りの拉致も含まれています)。そのことに、天皇をはじめとする当時の日本国家の指導者たちは大いに責任がありますが、戦争(それもアメリカとの戦争)だけではなく、明治以来の日本の膨張主義、植民地主義それ全体にたいして責任を引き受けるということを、この国はほぼまったく行っていません。戦後責任にかんする真の反省がなされていないからこそ、いま日本はますます右傾化し、内向きのナショナリズムをますます強め、憲法九条の改定または集団的自衛権の正統化(解釈改憲)さえ日程にのぼるようになっているのだと言えます。朝鮮の指導者礼賛をとやかく言う以前に、日本人は自国における指導者たちの無責任と無反省をなんとかするべきなのです。
今回の東京都の例にかぎらず、各地の地方自治体における朝鮮学校への補助金「見直し」の動きを全体的に見ると、おおよそ次のような暗黙の原則が貫かれているように見えます──在日朝鮮人の文化的な自己主張には(少なくとも表面的には)口を出さないが、その政治的な自己主張や立場表明(日本帝国主義やアメリカ帝国主義への抵抗)は、この機会に徹底的に封じ込めるべきだ、という。それを今回の東京都は、朝鮮の核問題や拉致問題といった明白に政治的な口実によらず、朝鮮学校の「偏向」の演出という手法で、より巧妙に行おうとしていると言えます。したがって私たちは、朝鮮学校の「偏向」を問題にするのではなく、日本国家全体が戦後責任という観点においてあまりに「偏向」しているということを、強く糾弾していくべきでしょう。
2013年11月17日
ヘイトスピーチに反対する会
この決定に、私たちは強く抗議します。それは、日本において朝鮮人の民族教育が作り出され、維持されてきた歴史的経緯を、完全に無視しています。またしたがって、朝鮮にたいする日本の侵略と抑圧の歴史や、また戦後も在日朝鮮人にたいする抑圧や差別が続いているという事実も、この決定においてはまったく顧みられていません──顧みないどころか、また一つ、在日朝鮮人差別の事例が東京都により作り出されたのです。
***
この不支給決定の根拠として、東京都生活文化局は「朝鮮学校調査報告書」(以下、報告書)を公開しています。これを知事は、朝鮮学校への補助金支給停止を「実証的に根拠づける」ものとして誇っています。
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/shigaku/chosen/honbun.pdf
やや長い報告書ですが、不支給の根拠として説明されていることは、結局のところ以下の二点につきます(30-31頁)。
1. 朝鮮学校が「朝鮮総連と密接な関係にあり、教育内容や学校運営について、強い影響を受ける状況にある」こと。
2. 朝鮮学校が「準学校法人として不適正な財産の管理・運用を行っている」こと。具体的には、学校施設の一部を朝鮮総連やその関係団体に利用させていることや、「朝鮮総連関係企業の負債のために担保提供」されている施設があること。
まず第二の理由にかんして、報告書は、朝鮮学校の運営において、都の「準学校法人設立認可基準」に 「抵触」している点を、いくつか挙げています(25, 27, 29頁)。この「準学校法人設立認可基準」(http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/shigaku/senkaku/index.htm)には、都が私立学校として認可しうる(したがって助成の対象としうる)教育機関の条件が定められているようです。そうなると、この「基準」への「抵触」とは、相手が朝鮮総連であるかどうかに関係なく、朝鮮学校と外部団体との関わりにおいて、法律上の形式的な問題が生じている、ということを意味するにすぎません。だとすれば、この「基準」に抵触する問題さえ是正すれば、補助金を停止する理由はなくなるということになりますし、この「基準」に抵触しないかたちでの外部団体との関係には、とやかく言われる筋合いはないということになります。
実際にはどうでしょうか。先にも書いたとおり、2010年に政府が朝鮮学校だけを「高校無償化」の適用から除外したことに歩調を合わせて、東京都も同年から朝鮮学校への補助金支給を留保しています。これは結論先にありきの留保で、法的・合理的な根拠などまったく示されていませんでした。当時の石原都知事は「さまざまな疑義がある」「議会に議論してもらいたい」と言うだけで、留保の理由を説明する責任をまったくとらず、朝鮮学校への補助金支給を止めたのですから。通常なら「準学校法人基準にかかわる問題が発覚した→その是正を勧告したにもかかわらず改善されない→補助金停止」という手続きが正当であるはずが、実際には「補助金停止→準学校法人基準に抵触する問題点を探し出した」という流れになっています。そして、このたび出された報告書では、朝鮮総連からの「強い影響」が問題とされているわけです。この「強い影響」が、財産関係上の形式的な問題のみならず、朝鮮学校の教育内容をも指していることは、言うまでもありません。
法的基準は二次的な問題でしかなく、補助金停止の主要な理由は別のところにあることは、火を見るより明らかです。
***
したがって、都が朝鮮学校への補助金を停止する理由は、つきつめれば、朝鮮学校と朝鮮総連の「密接な関係」ただ一つとなります。
これにたいして、在日朝鮮人の民族教育の歴史を少しでも知っている者なら、まず次のような疑問が当然湧いてくるはずです。「なぜ朝鮮学校と朝鮮総連の関係が、最近「発覚」した事実であるかのように取り沙汰されねばならないのか」と。戦後、在日朝鮮人の民族教育が全国的に組織化されていったのは、総連の前身団体である朝連(在日本朝鮮人連盟)の運動をつうじてでした。その意味で、在日朝鮮人の民族教育の成立は、在日朝鮮人の政治運動・民族独立運動の成立と不可分であると言えます。政治的志向として、朝連‐総連は朝鮮人による自主独立の国家建設を支持し、国家体制として朝鮮民主主義人民共和国を支持しました。それと並行して、朝鮮学校が朝鮮人の自主性を基本的価値として教育に反映し、また民族的自主性を最重要視する朝鮮国家を理想として掲げています。くわえて、朝鮮は1957年から在日朝鮮人の民族教育に援助金を送っています。こうしたすべてが、朝鮮学校の歴史と切っても切り離せない事実です。
さて、つぎの問題は、そのような歴史的背景をもつ総連と朝鮮学校との関係に、なぜ日本の行政機関が介入しうるのか、ということです。日本に在留しているのだから日本人が口を出すのは当たり前、と言われることがありますが、そもそも在日朝鮮人という存在は、日本国家の一方的な侵略の結果として作り出されたものです。1910年からの(実質的には1905年からの)植民地支配は、朝鮮半島の土地の大部分を現地人の手から奪って日本人の所有地へと転化した(土地調査事業)結果として、土地を追われた朝鮮民衆の一部が、仕事を求めて日本列島に渡ってくるようになりました(強制徴用・強制労働も多くありました)。日本の膨張・侵略に並行して、朝鮮民衆は独立の生活基盤や自主的な近代化の機会のみならず、自分の言語や名前すら日本に否定されるようになりました。今日までに朝鮮学校が守り伝えようとしてきたもの、つまり朝鮮の言語や文化、歴史、民族としての自主独立の理念は、すべて日本が植民地期に否定し抑圧してきたものなのです。総連と朝鮮学校との関係が、日本の支配体制からの自己解放を在日朝鮮人が試みる過程で作られたものであるのにたいして、この関係に介入しようという日本の行政機関の態度は、日本がいまだ宗主国としての意識をもっていることの表れと言えます。
「不幸な過去」などとして天皇や日本の政治家が朝鮮半島の植民地支配を「反省」するコメントを発したことが何度かありました。しかし、ほんとうに植民地支配を反省するのであれば、植民地期に日本人が朝鮮人にたいして否定してきたすべてのことを日本国内においても認め、法的に保障すべきでしょう。ところが実際には、戦後初期の民族教育弾圧にはじまり、1960年代の外国人学校法案(成立せず)、私学助成からの排除、大学受験資格における朝鮮高校卒業者の差別など、在日朝鮮人の自主的な民族教育を否定し、抑圧し、差別する姿勢において、戦後日本は一貫していました。地方自治体の補助金(1970年代から)や大学入学資格(国立大学ではようやく2003年から)などの成果は、比較的少ないとはいえ日本人の支援もあったものの、基本的には日本人の自発的な反省からではなく、在日朝鮮人の権利獲得運動の結果です。
***
とはいえ、朝鮮学校と総連との関係を口実にする人たちは、おそらく日本の戦後責任の観点から在日朝鮮人の民族教育を考えることを避けたいのでしょう。東京都の報告書では、総連が「破壊活動防止法に基づく調査対象団体 」であることが指摘され(5頁)、また朝鮮民主主義人民共和国の指導者を「礼賛」していることや、その「肖像画」を掲げていることがクローズアップされています(30頁等)。とはいえ、こうした点がなぜ補助金カットの決定を正当化するのかについては、猪瀬知事は「都民の理解が得られない」という、まったくもって非実証的な理由しか挙げていません。とにかく、昨今の「北朝鮮」バッシングの風潮を増幅するかたちで、総連や朝鮮国家との関係を強調することにより、朝鮮学校が異常なものであるかのように見せようとしているのでしょう。
まず「破防法に基づく調査対象」という点については、公安調査庁という政治的な意図をもった国家諜報機関(特定の政治団体のみならず社会運動や人権・言論団体一般を常時監視している)が目をつけている、ということを意味するに過ぎず、言われている「破壊活動」は根拠不明なものです。
また指導者の「礼賛」についても、なぜそれが朝鮮学校の場合にのみ、あたかも異常なことのように切り取られるのでしょうか。国の指導者、とくに建国期の指導者・功労者を「礼賛」することは、どの国でも一般的なことです。米国のワシントン記念塔、現国王の肖像が刷られたタイの紙幣、トルコの公共施設や学校のそこかしこに飾られているケマル・アタチュルクの肖像画や彫像、等々、事例の枚挙には暇がありません。日本でも、近代化または「文明開化」の唱導者が最高紙幣にデザインされています──この人物は忌むべきアジア侵略の唱導者でもあったのですが。
朝鮮民主主義人民共和国が日本人を拉致したことは事実であり、そのことに朝鮮国家の体制や指導者もまた責任があると言えるでしょう。ところで、日本はその何十万倍にも及ぶ朝鮮人の男女を、大日本帝国の「富国強兵」のために動員してきました(そのなかには文字通りの拉致も含まれています)。そのことに、天皇をはじめとする当時の日本国家の指導者たちは大いに責任がありますが、戦争(それもアメリカとの戦争)だけではなく、明治以来の日本の膨張主義、植民地主義それ全体にたいして責任を引き受けるということを、この国はほぼまったく行っていません。戦後責任にかんする真の反省がなされていないからこそ、いま日本はますます右傾化し、内向きのナショナリズムをますます強め、憲法九条の改定または集団的自衛権の正統化(解釈改憲)さえ日程にのぼるようになっているのだと言えます。朝鮮の指導者礼賛をとやかく言う以前に、日本人は自国における指導者たちの無責任と無反省をなんとかするべきなのです。
今回の東京都の例にかぎらず、各地の地方自治体における朝鮮学校への補助金「見直し」の動きを全体的に見ると、おおよそ次のような暗黙の原則が貫かれているように見えます──在日朝鮮人の文化的な自己主張には(少なくとも表面的には)口を出さないが、その政治的な自己主張や立場表明(日本帝国主義やアメリカ帝国主義への抵抗)は、この機会に徹底的に封じ込めるべきだ、という。それを今回の東京都は、朝鮮の核問題や拉致問題といった明白に政治的な口実によらず、朝鮮学校の「偏向」の演出という手法で、より巧妙に行おうとしていると言えます。したがって私たちは、朝鮮学校の「偏向」を問題にするのではなく、日本国家全体が戦後責任という観点においてあまりに「偏向」しているということを、強く糾弾していくべきでしょう。
2013年11月17日
ヘイトスピーチに反対する会