【何が問題なのか】 3.「日の丸は無関係」論、「日の丸批判はヘイト」論
1.24行動で何が問題となっていたのか、何をわたしたちが問題にしようとしていたのかについて、ひきつづきブログでおぎなっていきます。
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今回は「日の丸は無関係」や「日の丸批判はヘイトスピーチ」といった論理の、どこがどうねじ曲がっているかを解説します。
たとえばこうです。
>在特会批判するのは構わないが
>日の丸は関係ないだろう。
関係なくなどありません。かれらが日の丸をシンボルマークに他民族排斥を行っているのですから。
在特会ら「行動する保守」は、日本人全体がたったひとつの利益をもつと勝手に想定し、それを「日の丸」としてシンボル化します。「日本人の利益」なるもの、しかも「日本人」でない人とは共有できないものとしての「日本人の利益」なるもの、それを「日の丸」に象徴させるわけです。
もちろんその背景には、日帝期に日の丸が「日本人の民族的優秀性」というフィクションの象徴だったという、歴史的な経緯があります。「日本人の民族的優秀性」とは同時に、つまり他のアジア民族は未開であり劣等なのであって、それを導く能力と権利と使命が「日本人」にはあるという、傲慢な思想を含んでいました。こう言ってもいいでしょう。近代においては、「日本人」という概念そのものが特権であるかのようにされたということです。そして、その特権性のシンボルマークが「日の丸」でした。
かたや2010年、在特会らは「在日特権」というねじれた言葉を使います。「在日特権」などというものがあるとすれば、どう考えてもそれは「在日日本人」(それと在日米軍)にあるはずですが、それ以前に、この「特権」という想像力は何でしょうか。「日本」にいることが「特権」つまり特別なものである、という世界観は何なのでしょうか。戦中の「日本人の民族的優秀性」という傲慢な想像力と、どこがどう変わったというのでしょうか。要するに在特会らは、「日本人」だけが「特権」をもつべきだ、自分たちだけにいつまでも特権をくれ、と言っているのです。ただし、戦中の「日本人の優秀性」は膨張主義的だった、つまり他民族にぜひとも押し付けねばならないものだったのに対し、2010年のいまでは、それは他者と共有不可能であり、ゆえに何としても他者に譲り渡してはいけないものとして、想像されています。
そして日の丸は、いまも昔も、そのような「日本人」という特権性のシンボルとして、ということはつまり、同時に他民族の劣位というメッセージが込められたものとして、振り回されているのです。ここに、日の丸を単なる「アイデンティティの象徴」などと言って済ますことのできない理由があります。
さて、奇妙なことに、日の丸への批判が強者から弱者への攻撃であるかのように受け取る人がいます。そのような発想においては、上に説明したような日の丸の歴史と意味がみごとにひっくりかえっています。この倒錯もきちんと指摘しておくべきでしょう。たとえば、
>とりあえずまあ多くのコメントにあった
>日の丸に大きなバッテンをつけ多くの日本人の尊厳を傷つけた
>このことについて何か言って下さい
>ヘイトスピーチに反対するとか言っといて自らも同じ行為をする全くもって意味不明
>どうぞ逃げずに答えて下さいね
まず、ヘイトスピーチが単なるけなし文句とどう違うのかは、過去記事で説明済みですので、繰り返しません。そのうえで、「多くの日本人の尊厳」が「傷ついた」という、この根拠のない決めつけに現われている被害者意識を問題としましょう。何かにおびやかされつつある弱いものとして「日本」なるものをイメージすることは、実のところ、先にも説明した「日本人の特権性」と結びついていると言わざるを得ません。
近代日本は、日本人であることをひとつの「特権」にしてしまいました(そのシンボルが日の丸)。つまり、日本人で「ある」か「ない」かを、人間の優劣を左右する要素であるかのようにでっち上げました。しかもそれはあらかじめ「日本人である」と決められたもの以外には共有できないものとされていました。(なお、戦中、創氏改名した朝鮮人であっても、「朝鮮戸籍」により「内地人」と区別され二級市民あつかいされ続けました。そのような歴史を反省せず、在日朝鮮人・韓国人に「帰化」をすすめることもまた、二級市民あつかいの歴史の延長線上にあるものです。)
この「他者と共有できない特権としての日本人性」という幻想こそが、被害者としての日本人という意識の前提となっているのです。なぜ日本に生きている「日本人」が、それほどまでに自己を弱い被害者として感じるのでしょうか。なぜ日の丸への批判を、個人の「尊厳」への攻撃として感じるのでしょうか。「日本」「日本人」なるものを「特権」として前提していなければ、そのような感覚は生じてこないだろうし、日の丸批判が差別だ、ヘイトスピーチだ、などという倒錯した論理は出てきようもありません。「日本人」であることによって、いつまでこのような閉鎖的・自己満足的な幻想をもちつづけねばならないのでしょうか。
(なお、日の丸にかぎらずどの国旗であっても、さまざまな歴史や文脈のなかで、民族的優越性というフィクションのシンボルとして批判されてきました。他方、マジョリティが少数者をおとしめるという文脈で、差別と排除のメッセージを伝えるために国旗が使われることもあります。これらのことは区別されねばなりません。)
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今回は「日の丸は無関係」や「日の丸批判はヘイトスピーチ」といった論理の、どこがどうねじ曲がっているかを解説します。
たとえばこうです。
>在特会批判するのは構わないが
>日の丸は関係ないだろう。
関係なくなどありません。かれらが日の丸をシンボルマークに他民族排斥を行っているのですから。
在特会ら「行動する保守」は、日本人全体がたったひとつの利益をもつと勝手に想定し、それを「日の丸」としてシンボル化します。「日本人の利益」なるもの、しかも「日本人」でない人とは共有できないものとしての「日本人の利益」なるもの、それを「日の丸」に象徴させるわけです。
もちろんその背景には、日帝期に日の丸が「日本人の民族的優秀性」というフィクションの象徴だったという、歴史的な経緯があります。「日本人の民族的優秀性」とは同時に、つまり他のアジア民族は未開であり劣等なのであって、それを導く能力と権利と使命が「日本人」にはあるという、傲慢な思想を含んでいました。こう言ってもいいでしょう。近代においては、「日本人」という概念そのものが特権であるかのようにされたということです。そして、その特権性のシンボルマークが「日の丸」でした。
かたや2010年、在特会らは「在日特権」というねじれた言葉を使います。「在日特権」などというものがあるとすれば、どう考えてもそれは「在日日本人」(それと在日米軍)にあるはずですが、それ以前に、この「特権」という想像力は何でしょうか。「日本」にいることが「特権」つまり特別なものである、という世界観は何なのでしょうか。戦中の「日本人の民族的優秀性」という傲慢な想像力と、どこがどう変わったというのでしょうか。要するに在特会らは、「日本人」だけが「特権」をもつべきだ、自分たちだけにいつまでも特権をくれ、と言っているのです。ただし、戦中の「日本人の優秀性」は膨張主義的だった、つまり他民族にぜひとも押し付けねばならないものだったのに対し、2010年のいまでは、それは他者と共有不可能であり、ゆえに何としても他者に譲り渡してはいけないものとして、想像されています。
そして日の丸は、いまも昔も、そのような「日本人」という特権性のシンボルとして、ということはつまり、同時に他民族の劣位というメッセージが込められたものとして、振り回されているのです。ここに、日の丸を単なる「アイデンティティの象徴」などと言って済ますことのできない理由があります。
さて、奇妙なことに、日の丸への批判が強者から弱者への攻撃であるかのように受け取る人がいます。そのような発想においては、上に説明したような日の丸の歴史と意味がみごとにひっくりかえっています。この倒錯もきちんと指摘しておくべきでしょう。たとえば、
>とりあえずまあ多くのコメントにあった
>日の丸に大きなバッテンをつけ多くの日本人の尊厳を傷つけた
>このことについて何か言って下さい
>ヘイトスピーチに反対するとか言っといて自らも同じ行為をする全くもって意味不明
>どうぞ逃げずに答えて下さいね
まず、ヘイトスピーチが単なるけなし文句とどう違うのかは、過去記事で説明済みですので、繰り返しません。そのうえで、「多くの日本人の尊厳」が「傷ついた」という、この根拠のない決めつけに現われている被害者意識を問題としましょう。何かにおびやかされつつある弱いものとして「日本」なるものをイメージすることは、実のところ、先にも説明した「日本人の特権性」と結びついていると言わざるを得ません。
近代日本は、日本人であることをひとつの「特権」にしてしまいました(そのシンボルが日の丸)。つまり、日本人で「ある」か「ない」かを、人間の優劣を左右する要素であるかのようにでっち上げました。しかもそれはあらかじめ「日本人である」と決められたもの以外には共有できないものとされていました。(なお、戦中、創氏改名した朝鮮人であっても、「朝鮮戸籍」により「内地人」と区別され二級市民あつかいされ続けました。そのような歴史を反省せず、在日朝鮮人・韓国人に「帰化」をすすめることもまた、二級市民あつかいの歴史の延長線上にあるものです。)
この「他者と共有できない特権としての日本人性」という幻想こそが、被害者としての日本人という意識の前提となっているのです。なぜ日本に生きている「日本人」が、それほどまでに自己を弱い被害者として感じるのでしょうか。なぜ日の丸への批判を、個人の「尊厳」への攻撃として感じるのでしょうか。「日本」「日本人」なるものを「特権」として前提していなければ、そのような感覚は生じてこないだろうし、日の丸批判が差別だ、ヘイトスピーチだ、などという倒錯した論理は出てきようもありません。「日本人」であることによって、いつまでこのような閉鎖的・自己満足的な幻想をもちつづけねばならないのでしょうか。
(なお、日の丸にかぎらずどの国旗であっても、さまざまな歴史や文脈のなかで、民族的優越性というフィクションのシンボルとして批判されてきました。他方、マジョリティが少数者をおとしめるという文脈で、差別と排除のメッセージを伝えるために国旗が使われることもあります。これらのことは区別されねばなりません。)