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4月26日集会の報告

以下は、4月26日に当会が開いた集会酒井隆史 meets ヘイトスピーチに反対する会 ~何が運動を国民主義化するのか~」にかんする、当会の報告である。

酒井さんの講演は、1960年安保における国会周辺の抗議運動に光を当てることに、焦点を絞ったものだった。まず、酒井さんは自身の問題関心を説明するために、最近の大江健三郎の発言を例に挙げた。大江は昨今の反原発デモを、60年安保や70年安保における「学生活動家」の「ジグザグデモ」と比較して、後者が「普通の市民の参加を拒絶」しているのに対し、現在のデモは「およそ誰も指導しないし、指導されもしない」「民主主義のデモ」であると評価している。だがこのような見方は、運動史の恣意的な再構成でしかなく、街頭運動の潜在力をみずから狭めてしまうものだと、酒井さんは反論する。彼によれば、ジグザグデモの源流は、戦後の前衛的な学生運動ではなく、少なくとも戦前の大阪における労働運動まで遡りうるもので、それはむしろ祝祭性さえ有する、民衆による民衆のためのデモであったという。戦後においてもジグザグデモは、学生の占有物というわけではなく、1960年安保においても、労働者や市民の多くが自発的に採り入れた抗議形態であった。むしろ国会前のジグザグデモを非難したのは、先鋭化する運動から離反したデモ参加者ではなくて、運動の統制ができないことを苦々しく思っていた運動指導者や「議会政治を守れ」というスローガンを掲げたマスメディアであったと、酒井さんはつけ加える。彼によれば、とくに共産党は「整然とした」デモを乱す者が民主主義を壊しているとして、全学連やジグザグデモ参加者を執拗に攻撃した。だがむしろ、共産党がよしとするような運動の自主規制が浸透するにつれて、かえって警察による「街頭の自由」への統制が強まっていったという。こうしたなか、1960年の安保反対運動は、6月19日の改定安保条約の自然成立を境に沈静化していく。

現在の東京での官邸前デモや街頭抗議については、酒井さんは、事情を熟知していないのでむしろ会場から意見を聞きたいと断り、はっきりとした言明は避けた。とはいえ、近年の反原発などの街頭運動について注意深く観察している者にとっては、彼の実証的・歴史的考察が現状についてもつ意味を、読み取らずにはいられないだろう。1960年安保で共産党が代表していたような、「整然とした」デモを大衆的・民主的として持ち上げる自主規制的な眼差しが、まさに今日の街頭や官邸前デモには、深く浸透していないだろうか。そのようなムードを示す一例として、酒井さんがたとえば大江健三郎のデモ評価に批判的に言及しているのだと理解しても、本人の意図を歪めてはいないだろうと思われる。昨今の街頭運動にかんする(大江が表明したような)自己イメージが、自主規制による権力との妥協という限界について無感覚・無反省であり、だとすれば今日の運動も、この同じ限界から自由ではないのではないかという点では、酒井さんの言外のメッセージは明確であろう。

*

その後の会場討論では、まず当会が、集会の副題にも掲げている「運動の国民主義化」について問題を提起した。官邸前デモだけでなく、昨年の大久保以来の「反レイシズム」カウンター行動も参照しつつ、いくつか気になる点を挙げた。改めてまとめると、以下の三点である。

第一に、社会運動における保守や右翼との連携が「懐の深さ」や大局的・建設的な運動姿勢として歓迎される(以前からの)傾向と、酒井さんが問題にしたような街頭運動と権力・規制との妥協という問題に、関連があるのかどうか。全体としては分かりやすい保守イデオロギーを前面に出すことはなく、しかし保守的、内向きなムードがますます運動に蔓延しているように見える。そうした意味での国民主義化は、街頭運動における規制への順応という現象とも、関連しているのではないか(現に、60年安保における共産党の基本路線は反米愛国だった)。

第二に、在特会などのレイシスト運動を攻撃するために差別的言辞が使われ、それに対する異論表明が(とくにウェブ上で)逆に非難の対象になる(レイシストとの闘いへの妨害などとして)という、一部の傾向について。これは、一見すると「上からの運動統制」とは逆の事態に見えるが、しかし実際には、運動内部の討論や批判を抑え込む、強い内向きな風潮を増幅しているように感じられる。これは、権力や規制への妥協とはやや質の異なる、草の根の運動において解決しなければならない問題ではないか。

第三に、運動における民主主義というスローガンの両義性について。60年安保では、民主主義の見かけをかなぐり捨てた強行採決へのデモ参加者の憤りが強くあったし、現在の反原発や反解釈改憲、あるいは反レイシズムにも、民主的価値の擁護や奪還への思いが少なからず含まれているように見えるが、その一方で、運動を限界づけ、制限するためにも、民主主義というスローガンは機能してきた。このことをどう考えるのか。民主主義に訴えかけるだけではなく、その内実を問いなおし、拡げるために、何が必要なのか。

しかしながら、酒井さんの視点、当会の問題提起、そして会場からのコメントが、あまりうまくかみ合わないまま、散漫なうちに集会は時間切れとなってしまったように感じる。これについては、なによりまず、当会の議事進行のやり方に問題があった。その点は反省し、今後の課題としたい。他方、欲を言えば、現状についても酒井さんから独自の分析やコメントを述べていただきたかった。たとえば運動の「国民主義化」という当会の提起した論点に対しては、「国民主義」という語の選択は別として、問題としていることがらのいくつかには大筋で賛成である旨、酒井さんは述べただけであった。また現状にかんする会場からのコメントについても、今日の運動の様相という観点からは、酒井さんはほとんど応答していなかったように記憶する。われわれの議事進行がうまくなかったせいでもあるが、誰の側に立つのかという立場表明ではなく、酒井さんの独自の情勢分析やコメントを、少しでもお聞かせいただければ、議論もより活発になっただろうと思う。

*

最後に、集会後、当会の内部議論で出された見解を、いくつか挙げたい。

第一に、日常の差別と公的な差別・排外主義との関連について。この論点は、質疑応答における酒井さんのコメントを受けている。ある居酒屋での懇親の席で、彼の学生が悪ぶれもせず唐突にヘイト発言をおこない、どう対応すべきか困ったという例をあげ、日常レベルでの排外感情の蔓延に対する取り組みが必要ではないかと示唆した。それはもちろんそうなのだが、その取り組みとは具体的にどのように行われるのか。「ひとりひとりが注意す」というありきたりな精神論のほかに、具体的な指針はあるだろうか。また、日常レベルの取り組みと、社会運動とは、いかなる接点をもつだろうか。たしかに差別という現象は、日常関係、文化やイデオロギー、そして制度という、さまざまな分野にまたがっているのだが、そのどれかを他の分野を条件づける基礎として見るよりは、それぞれの分野においてなされるべき取り組みのかたちを区別したうえで、相互に関連づけていくような議論のやり方のほうが生産的ではないか。こうした意見が会内で出た。

第二に、いまの日本の運動状況を踏まえて、どのような議論と活動の方向を定めていくべきかについて。酒井さんが問題にした権力・規制への順応と、当会が問題にした国民主義化は、つぎの点において並行する現象であると、さしあたり言えるかもしれない。つまり、動員数や「整然とした」デモを至上目的とする一方で、運動内部における相互批判や自己検討を忌避し、差別の問題についても過激なレイシストの土壌である制度的・社会的な価値観を問題にしない風潮において。そうだとすれば、運動を内部から自己変革しようとする力が、圧倒的に弱いということが、克服すべき問題と言える。そのような力は、どのようにして育てていくことができ、また逆に何によって弱められていくのか、ということを問い返しながら、活動を展望し、推進していく必要があるだろう。当会はまだ、具体的な展望を見定めるには至っておらず、それは今後の課題である。ともあれ、そのような課題を強く意識するようになった点において、当会としては、酒井さんをお招きして集会をもった意義を、さしあたり確認することとしたい。


「公開討論会開催のご提案」への返答2

返答1
返答1にたいする先方の返答 http://kino-toshiki.tumblr.com/post/81834400517


木野さま

開催に向けた協議に入るにあたって私たちが要求した、最低限度の5条件が満たされていないので、そして何より、あなたの態度からは、残念ながら生産的な議論が望めないので、このたびご提案いただいた公開討論会には、わたしたちは参加しません。


第一に、討論の内容について。
あなたは「当方と決議文と貴会の決議案とでは大きな違いがある、いや、「対立」があります」と返答し、その対立について議論されたいとおっしゃいますが、対立があること自体は、いちいち確認していただかなくても自明です。

そちらの「具体的な法整備案もなければ歴史認識問題にも一切触れ」ないという方針が、どういう考えや根拠から出てくるものなのか、あなたの書いたものからは見えてこないと、わたしたちは先の返信に書きました。
わたしたちの考えは、その都度ブログの諸記事で明らかにしようと努めてきましたが、あなたからは何も見えてこない。
先の返信で「条約履行に収れんする運動が生産的ではないことはすでに木野さまにご参加いただいた学習会においても十分に語られたことだったのではないかと思います」と書きましたが、そう思うのか思わないのか、思わないならどう考えているのか、といったことを、まったく返答されていません。


このようすでは、わざわざ当日に足を運んでも、なんら議論の発展など期待できないと思わざるをえません。
無駄な議論、相手を言い負かすことだけを目的とした、ためにする討論のために、貴重な時間を割きたくはありません。



第二に、あなたの悪質な態度について。

あなたは「返信への返信」でまたもや私たちを「反レイシズム運動の妨害者」と呼びました。
あなたがどう思おうが知ったことではありませんし、あなたの活動に協力する気もありませんが、あなたの活動ではなく「反レイシズム運動」それ一般にたいする「妨害者」とわたしたちを規定する根拠を、あなたはまったく示していません。
根拠がなければ、それはたんなるレッテル貼りです。

わたしたちは昨年9月22日に、「東京大行進」の集合場所周辺で街宣・ビラ捲きをすることにした経緯や、そこで起こった事実を、ブログで公表しました。私たちは街宣を「東京大行進」主催者が設けた規定に抵触しないかたちで行っており、むしろそれを一方的に妨害されたのは私たちですが、そのことを事実関係によって説明しています。しかし「東京大行進」主催者は、事実関係の説明には触れようとせず、ヘイトスピーチに反対する会の参加を今後拒否すると公表しただけでした。

今回わたしたちが掲げた5つの条件についても、「謝罪しません」「松沢さんに言ってください」「野間さんに言ってください」などと、「東京大行進」主催者の一人としての責任をまったく省みない応えを返しているだけです。拒否や不同意を表明するならするで、根拠を示せばまだしも説得力があるかもしれませんが、「いやだ」「拒否する」といったことしか、あなたの返答には書かれていません。

これではまったくお話しにならない、というのが、わたしたちに唯一できる回答です。


最後になりますが、わたしたちは、あなたの関わっている活動そのものには、なんの関心もありません。問題の核心に対決せず、印象操作とレッテル貼りで表面的な盛り上がりを演出するような運動は、どうせ先が見えているのですから。わたしたちがいま問題にしているのは、この国における現在の社会運動一般の姿勢です。


ヘイトスピーチに反対する会




「公開討論会開催のご提案」への返答

「東京大行進」発起人の木野寿紀さまより、次のような内容のメールをいただきましたので、返答します。
http://kino-toshiki.tumblr.com/post/81367893955

木野さま

公開討論のご提案を読ませていただきました。
当会としては、公論に付すことで反差別運動の展開が見出される可能性がある論点について、公開の場で議論することを歓迎いたします。しかし、ご提案を一読させていただいた限りでは、木野さまからご提案いただいた論点にそのような可能性があるのか判然といたしません。
そこでまず木野さまからご提案いただいている2つの論点についてお伺いします。

第1点は、昨年9月に当会が開催した学習会で木野さまが提起されたもの、とのことです。字義どおりにとれば、「東京大行進はワンイシューとする」という、当時木野さまが示された方針が適切であったか否かを議論することになります。しかし、それは同行進を主催し運営し参加した方々との間でまずなされるべきことと思いますし、将来の行動の方針を検討するという文脈の中でしか過去の行動の方針に関する議論は生産的ではないと考えます。敷衍するなら反差別運動の方針は、政府に条約の履行を求めるだけでよいのか、ということになると思いますが、条約履行に収れんする運動が生産的ではないことはすでに木野さまにご参加いただいた学習会においても十分に語られたことだったのではないかと思います。この点について木野さまが感じられている議論不足とは何でしょうか。お考えをお示しいただけると助かります。
第2点は、木野さまたちが行っている反レイシズム運動への当会の批判について、とのことです。当会の反レイシズム運動に関する考えは、すでにいくつかブログ等で公開しております。しかし、これについて木野さまがどのようなお考えをお持ちなのか、木野さまのtwitterなどでの発言を探しましたがわかりません。またご提案においても、木野さまのお考えについてはお示しいただけていないようです。この論点が有意義なものとなるかどうか、ぜひ木野さま自身のお考えをお聞かせいただけると助かります。

次に、当会は、木野さまたちとの間に、討論の前提が満たされるかどうかを懸念しています。当会としては平気でウソをつき人を脅迫してまわる人々との間にいかなる討論関係も成立するとは考えていません。したがって当会としては、開催に向けた協議に入るにあたって、最低限度以下の5条件が満たされる必要があると考えています。

1.木野トシキによる当会メンバーに対する処刑宣言について、木野トシキ本人および東京大行進主催者から当会メンバーへの謝罪と被害回復の措置がとられること
2.野間易通による当会学習会の無断録音と公開、人定情報の流出について、野間易通本人からの謝罪と被害回復の措置がとられること(*1)
3.レイシストしばき隊男組による当会のチラシ配布への妨害行為の容認について、東京大行進主催者から謝罪およびレイシストしばき隊男組への非難声明と被害回復の措置がとられること(*2)
4.松沢呉一による「おばあちゃん暴行事件」など当会による暴行事件なるデマ拡散について、松沢呉一からの当会への謝罪と被害回復の措置がとられること
5.東京大行進からの当会の排除について、東京大行進主催者から謝罪と被害回復の措置がとられること(*3)

以上、2つの論点と5つの条件について、木野さまからのご回答をお待ちしています。
 
*1http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-118.html
*23http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-120.htmlhttp://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-123.html

酒井隆史 meets ヘイトスピーチに反対する会 ~何が運動を国民主義化するのか~


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酒井隆史 meets ヘイトスピーチに反対する会
~何が運動を国民主義化するのか~

■問題提起 酒井隆史さん
大阪府立大教員、著書に『通天閣 新・資本主義発達史』青土社、他
■主催 ヘイトスピーチに反対する会livingtogether09@gmail.com
■日時 4月26日(土)13時開場/13時半開始
■場所 初台区民会館/渋谷区初台 1-33-10/京王新線 初台駅 徒歩5分
■資料代 500円
※無断での録音・撮影および右翼と警察協力者の入場は禁止です。

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何よりも社会運動が問われなければならない。

日本社会の排外性や、歪んだ歴史認識にもとづく自民族中心的な対外姿勢について口を閉ざす反差別運動。その一方で、在特会などのレイシスト市民運動による「慰安婦」展への妨害活動の活性化。「そよ風」「なでしこアクション」「花時間」などの「慰安婦」を「合法的な売春婦」とするキャンペーンを正面切って批判する声の弱まり。

これらは、いまの社会運動が陥った倒錯が呼び寄せている。「新たな運動参加者への敷居」を引き下げるために天皇主義右翼を引き入れたこと。民主主義を国政から街頭へと取り戻す運動が警察協力へと行動を枠づけ、不当な介入や逮捕に抗議すらしないこと。そしてあろうことかこれらを批判する者たちには悪罵をもって答えていること。ひどい倒錯である。

「誰も指導しないし、指導されもしない・・・民主主義のデモ」は、参加者間の創意と討議による運動の変化に期待をかけることだ。しかしその根幹は空洞化している。罵りとレッテル貼りで批判者を排除し、人々を羊群として扱う運動組織者を擁護してはいけない。この姿勢が、国家権力の規制に乗っかり、本来もっと豊かな可能性を内包しているはずの 「直接行動」を、官許の「オプション」へと貶めている。

日本の軍事・警察国家への傾斜を止めるには、政権が市民を戦争に巻き込む恐怖を煽るだけでは足りない。この動きが根差す排外主義やナショナリズムの根を克服する運動が必要だ。そのための議論を続けよう。







テーマ : 社会問題
ジャンル : ニュース

【講演】部落解放運動の経験から見た人種差別撤廃条約(友常勉)後編


もくじ / 前編 / 後編


差別禁止と権利保障

以上、個別部落解放運動の経験とダーバン会議の経験を踏まえたうえで、今日のディスカッションの中で役に立つような論点を僕の方から話してみたいと思います。人種差別撤廃条約と差別禁止法をめぐる一般的な争点ということです。

人種差別撤廃条約は、第1部が定義と様々な履行措置で、第2部が手続き論になっています。第4条は、「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。a項「扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言、b項「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること」、そしてc項「国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めない」。第4条はそのような内容です。

実は第5条は、同じ問題を扱いながら、向かっている方向が少し違います。第5条は権利保障が主張されています。「あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障することを約束する。4条と5条は二つの違う方向を向いている条項です。

4条を中心に考えるか5条を中心に考えるかで、締約国あるいはさまざまな国の差別に対する取り組みが変わります。ややラフに分けてしまうと、4条は差別禁止、「表現の自由」も抑制する強い規制ですね。団体活動を犯罪として処罰する。そういう方向での差別禁止法を採っているのは、イギリスやフランス、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリアなどがあります。憎悪扇動、ハラスメント、出版など、差別擁護の禁止を規定しています。イギリスの人種関係法もすごく厳しいですね。ニュージーランド、オーストラリアは国際人権裁判所と直結しているので、ある意味で第4条がそのまま踏襲されているような内容です。フランスは「反人道罪」が生きている、生かせるように運動を作ってきた歴史を持っていますので、そのような意味での差別禁止法を持っています。

これに対して権利保障の方に比重を置いているのはどこかというと、僕はアメリカだと思います。アメリカの「公民権法」は、実は権利保障の方を重視する法律です。これは僕の言葉になりますが、「表現の自由」は一定保障します。マイノリティの権利保障、保障拡大の法体系に向かっているんです。権利保障、補償、施策体系を通してその中に差別禁止条項を包括する。あるいは差別禁止条項そのものは、時にはその中で抑制もされます。アメリカの公民権法は、segregation、黒人はこっち、白人はこっちというように完全に分けられていたのを、それは差別だからさせないということです。ですから、それが整備されて雇用、公共施設、教育における差別禁止という表現になっています。ただ、同時に1964年公民権法は、アファーマティブ・アクションも一緒に決めました。つまり権利保障ですね。マイノリティの人口比率に応じて、優先的に雇用や教育を保障するという施策です。実は、日本の同和対策事業はアファーマティブ・アクションにすごく近いんですね。インドでもダリトに対して行われていますが。

だから、アメリカではネオナチがデモをするのは禁止されていません。州による違いまでは僕もちゃんとカバーはしていないですが。ただそれに対して、それが具体的な公共の場面で、公民権の、日本で言えば市民的権利の阻害になるのであれば、それは差別の禁止の条項に当たるということで、積極的な是正が必要になります。

ちなみに、ここまで言っていいのかどうかわかりませんが、三日前までアメリカでリサーチをしていたせいもあって思ったことです。今、オバマが「移民制度改革法」に着手して発言をしています。いわゆる不法移民を移民として認める、アメリカのシチズンとして受け容れる(移民とシチズンは少し違うので正確ではありませんが)。つまり、不法移民というステイタスの「不法」を取る、ということなんですね。500ドルの罰金を払えば合法移民になれるという施策に着手をしようとしています。恐らくそれは、いろいろな議論の中ではマイノリティ票を獲得するための口実なのではないかとも言われていますが、実はそれに賭けている様々な不法移民がアメリカにはたくさんいて、30年ぐらい不法移民でホームレスをしている人なんてたくさんいるわけですね。30年間もそういう状態にあるアジア系の人たちも含めていますから、そういう境遇の人たちがこの制度改革法に期待をすることはあるだろうと思います。ともかく、これもまた権利保障という概念の拡張・拡大の方向を採っています。

ですから、差別禁止と権利保障・保障の拡充化という二つの方向、第4条と第5条はある意味で相互補完的ということも考えようによっては可能ですし、しかし違う方向に向かっているとも言えます。そして、それに基づく法体系を持っている国の差があるということが言えます。


日本政府の法意識と人種差別撤廃条約

では、日本はどうでしょうか。差別禁止法そのものに関して、僕が部落解放基本法や1980年代の議論の中で見てきて思うのは、やはりそれを実際に実効的に使うための大衆的な世論や組織がないと、国内の刑事法体系の中の厳罰化、あるいは警察権力が私事に介入する危険性を伴うということです。ですから、差別禁止法は必ずそれを考慮しながら考えなければならないと思っています。同時に、そうなると日本では、そもそも法意識や法風土の歴史的な考察が必要になるだろうと思います。

第4条的な地域・国家と第5条的な地域・国家の二つの法意識を述べましたが、実は、あいだを採っているのがたぶんインドかなと思います。インドのケースに関して言うと、権利保障を重視し、その中に差別禁止法も包括する。しかし、それでは実際のカースト差別は済まないので、国内の法体系の中でどんどん厳罰化が進んでいるように思います。厳罰化が進んだからといって、みなさんご存知のように、最近のカースティズム、インドカースト資本主義はもっともっと暴力的になっていて、ダリトの人たちに対して、殺人を含んだ激しい暴力がふるまわれています。

もう一つの論点は個人通報制度です。個人通報制度を日本国政府が認めない理由は何かというと、端的に言って国籍条項だろうと思います。日本国憲法の第14条の国民の権利、第15条の公民権、第16条請願権、第17条国家賠償請求権、それぞれ「国民の権利」の中に一括されています。日本政府が実際に「司法の独立」というときに、その「司法の独立」は、公民権、請願権、国家賠償請求権それぞれが、「国民」だから許容されているわけですね。それは「国民」に保障されるという立場なわけで、「国民」であることを前提として司法は遂行される。だから「司法の独立」とはつまり、それは飽くまで閉鎖的な国内的な法ということです。それを侵害されるような国際法の優位は認められないというのが本音だろうと思います。それと同時に、つまり国内法の優位に対して国際法を定義するのは、国家利害を優先するということだろうと思います。

実際、「司法の独立を通して」とか「個人通報制度を認めない」という作文をした時の外務省の中で、はたしてどういう議論があったのか僕はわかりませんが、例えばこういうことを考えて書いたのではないでしょうか。在日韓国人・朝鮮人、そして中国人その他の在日外国人が、日本国内で様々な市民的な生活において権利侵害を受けていると国連の人種差別撤廃委員会に通報する。その場合、何が起きるかをまず考えるということですね。あるいは、沖縄の基地の集中の状況に対して沖縄住民が通報したらそれはどうなるか。いずれも間違いなく人種差別撤廃条約に抵触すると思います。恐らく、そういうことに対して最初にディフェンスを張ったということが、個人通報制度を妨げている要因ではないかと考えています。つまり、憲法を根拠にした彼ら法務官僚なり外務省なりの問題意識はそういうことなのではないかと思います。


「未完のテキスト」を使うということ

三番目は、もっと抽象的な話です。日本社会の法意識の問題はやはりどうしても考えざるを得ないのではないかと思うので、レジュメに付け加えておきました。現在の自民党の改憲草案が出たおかげで、どうしても憲法の歴史などを勉強しなければならなくて、読み直したりしながら思うことです。

戦後憲法は第9条を持っていますから基本的に平和憲法ですが、第1条に象徴天皇制が置かれているように、そして様々な任命や外交使節の応接に関して天皇が用いられるように、それ自体は大日本帝国憲法の枠組みを継承している部分があります。帝国憲法は三大天皇大権を持っていました。国防、外交、官制です。そのいずれも象徴天皇的な役割が現在の憲法の中に残されています。ですから、現在の憲法は旧憲法の名残を濃厚にとどめているわけですね。それは、国家主義的な家族主義、国民主義の立場を採った家族主義に解釈することが可能です。それが先ほど申し上げたような「司法の独立」の一つの枠組みを作っているのではないかと思います。

もちろん、「国民の権利」の中には個人主義もきちんと保障されています。ですが、それはむしろ国民主義と個人主義が並置しているのが現行憲法の性格であると理解したほうがいいのではないかと思います。そうすれば、どちらを解釈していくかによって、憲法の運用が変わるということになります。「国民」を戦前憲法との連続の中で考えるか、それともそこに混ぜられている個人主義・個人の権利を守るという方向で解釈し運用する方向になるか、そういう立場の幅を孕んでいるのが実は憲法というテキストなんだと思います。

ですから、いったん、国民主義的な、あるいは国家主義的な方向に解釈するとなれば、基本的には憲法にかかわる問題は法務官僚やお上に任せておけばいいという意識もありますし、あるいは官僚の側からすれば国民に任せる必要はない、ということになります。実際、現在の自民党の改憲草案を見ると、あの中に法学者は積極的に参加してないと言われていますが、間違いなく官僚は作文には参加しています。つまり、民主党政権や自民党政権で様々に首相が代わりましたが、あれは政権が代わっても国家的な運営が安定することが可能な自民党改憲草案です。次に自民党の代わりに民主党が政権を取ったとしても、改定された憲法は生きるように出来上がっています。ですから、あそこには濃厚に官僚主義が反映しています。「国民」ではなく、政党でもなく、官僚が、きちんと国家を運営できることが可能な体制が憲法の中に盛り込まれています。それがいつも可能なようになっています。ですから、官僚主義的な国家主義というものが孕まれていると思います。法制度はやはり市民が監視しきらなければいけないと思います。

そういう意味では、日本国憲法だけでなく一般的に言えることですが、憲法とは「未完のテキスト」ですね。完成されたテキストではなくて空白部分がいっぱいあるので、我々が書き込まなくてはいけないテキストなわけです。だからそういう意識で憲法は使わなければいけないんだろうと思います。恐らくそれは、人種差別撤廃条約のように、非常に細部まで書き込まれたものに関しても言えるのではないかと思います。


運動の経験から

最後にそのような観点で、部落解放基本法制定要求運動などの経験から思うことをレジュメに書いておきました。
一つは、個別人権闘争の歴史的成果です。こちら側から憲法を解釈していくということですが、そういう蓄積を批判的に読み直す必要があるだろうと思います。八鹿高校の裁判の大阪高裁の判決は、糾弾権を認めた画期的なものでした。しかし、裁判所は判決に、日本には被差別者への積極的な権利の保障や、差別的な経験や被害を受けた際の救済措置がないということも盛り込んだんですね。それを運動は、「それ見たことか」と、やはり救済措置が必要だ、部落解放基本法が必要だという議論に傾いたんですね。

しかし、解釈としてそれはどうなのでしょうか。裁判所は「救済措置がない」と言いましたが、それを運動がどのように受け止め、理解すべきかは、実は批判的な理解が必要だったのではないかと思います。ですから、人権闘争は必ず歴史的成果を蓄積してきたと思いますが、それをどういう方向で読み解くかがやはり求められると思います。

それからもう一つは、アメリカの公民権とアファーマティブ・アクションの組み合わせがもちろんベストとは言いませんが、やはり僕がどうしてもそちらの方向で考えてしまうのですが、全体の総合的な差別からの被差別者・マイノリティの権利保障の中に、差別禁止をどう包括するかという発想が重要ではないかと思います。ですから、差別禁止もやっぱりある程度の抑制が必要、つまり時限あるいは制限が必要なのではないかと思います。それと同時に、法的な規制、救済保障のような拡充を進めることを考えていってはどうだろうかと思っています。いずれにしても、これは運動が作り上げることですので、運動の中で実体化していけばいいことであって、飽くまでも問題提起にすぎません。

なお、補足として、日本政府が批准していないものの中で、今日ちょっとだけ紹介しておこうと思ったのは、国連の障害者権利条約です(補注:この講演報告のあと、2013年12月4日、日本の参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立に伴い、国内の法律が条約の求める水準に達したとして、条約の批准を承認した。日本国の批准は2014年1月20日付けで国際連合事務局に承認されている)。これは障害者の自己決定権というのを非常に主張に強く打ち出した法律で、2006年に採択されたものです。権利条約の部類の中ではずいぶん新しい方ですね。“Nothing about us, without us!”と言っているように、障害者が自立して地域で暮らすと言ったら、それに関して行政・国は万全の保障をしなければならないということを伴う権利条約です。

しかし、現実にそんなことはされていません。行政の窓口はこんな権利条約があることも知らないし、生活保護と障害者に対する施策が一緒に組み合わせで保障ができるということを知らない窓口もある。だから、窓口で闘うしかないことが多いです。そういうことも突破できるような権利条約なのです。

だからそういう意味では、やはり問われているのは運動なのだろうと思います。なお、これには雇用差別の禁止も含むということであって、これは恐らく人種差別撤廃条約の差別禁止条項と絡んでいるのでしょう。ですから、人種差別撤廃条約の中で日本政府が認めていない、差別禁止と個人通報制度を突破することは、このように障害者権利条約の中に生産的に有効に跳ね返っていくことだろうと思います。




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